浜松市立高校陸上部の練習文化 ―「理解する力」が走りを変える ―

高校時代
高校時代
この記事は約10分で読めます。
  1. はじめに――ただ速いだけではない、学びの場
  2. 「動作を理解する」ことがすべての起点
    1. 動きを理解しなければ、走りは変わらない
    2. 理解を深める仕組み
  3. 選手同士が語り、見て、修正し合う文化
    1. 技術についての対話が飛び交う練習
    2. 相互指導が育てる3つの力
  4. 補強を「自分で選ぶ」主体性の伝統
    1. 選手が当番制で考える補強メニュー
  5. 多様な刺激で「走りの感覚」を育てる
    1. バリエーション豊かなトレーニング
  6. 松本奈菜子がこの環境で得たもの
    1. 技術的側面――身体操作能力の向上
    2. 認知的側面――レース構造の理解
    3. 主体性の確立――自分で考える力
  7. 松本奈菜子の走りを変えた7つの要素
  8. 中学期の基盤と高校期の技術体系の融合
  9. 考察①集団で学び、個が育つ仕組み
    1. 知識が共有される場としてのチーム
    2. 先輩から後輩へ――段階的な技能伝承
    3. 暗黙知を言葉にするプロセス
  10. 考察②自分で考える力を育てる環境
    1. 能動的な学習者として育てる
    2. 自分を観察する力の育成
    3. 自己調整学習の確立
  11. 考察③多様なトレーニングがもたらす効果
    1. 様々な刺激が身体を作る
    2. 運動の柔軟性を育てる
    3. 身体感覚を研ぎ澄ます
  12. 考察④組織文化の形成と維持
    1. 「学びが循環する文化」という資産
    2. 共有された信念
    3. 価値観を可視化する実践
  13. 考察⑤松本奈菜子への多面的な効果
    1. 技術的な側面
    2. 認知的な側面
    3. 心理的な側面
  14. 考察⑥文化が個を育て、個が文化を更新する循環
  15. 参考資料:後日掲載します。

はじめに――ただ速いだけではない、学びの場

浜松市立高校陸上部は、ただ速い選手を集めて勝つチームではない。

この学校の最大の特徴は、「走りを理解し、自分で工夫できるランナーを育てる」という一貫した哲学にある。練習の一つひとつに明確な意図があり、選手たちは「なぜこの動きを行うのか」を理解しながら身体を作っていく。

浜松市立には、勝敗以前に「学びが循環する文化」が息づいている。

「動作を理解する」ことがすべての起点

動きを理解しなければ、走りは変わらない

浜松市立の練習文化を貫く根幹は、「動きを理解しなければ、走りは変わらない」という考え方である。

これは杉井將彦監督の哲学であり、部内では次の言葉が繰り返し共有されてきた。

「自分の動きを理解したとき、人は初めて変わる」

ドリルや補強は、決して「やらされる作業」ではない。どの筋肉を使い、どの局面につながるのか。その動作が、レースのどこに結びつくのか――理解なくして、練習は始まらない。

理解を深める仕組み

浜松市立では、理解を深めるための具体的な仕組みが実践されている。

  • ドリル前に「今日のテーマ」を共有する
  • 動作の「終点」を必ず設定する
  • 選手同士で横からフォームを観察する
  • 練習後に「気づき」を言葉に残す選手も多い

この積み重ねが、浜松市立の技術水準を支えている。

選手同士が語り、見て、修正し合う文化

技術についての対話が飛び交う練習

浜松市立の練習風景を外から見ると、驚くほど「会話」が多い。それは雑談ではなく、走りについての対話だ。

「今の接地、前に入りすぎたね」 「骨盤が立っていない」 「その入り方だとカーブで流れる」

選手が選手を指導する。大学レベルの相互コーチングが、日常の中で自然に行われている。

相互指導が育てる3つの力

この環境が育てるのは、以下の3つの力である。

  1. 他者の動きを見る観察力
  2. 自己分析力
  3. 技術を言葉にする能力

「速くなる」と同時に、「考えられる選手が育つ土壌」がここにある。

補強を「自分で選ぶ」主体性の伝統

選手が当番制で考える補強メニュー

浜松市立には、補強メニューを選手が当番制で考えるという独自の文化がある。

  • 効果の高かった補強は翌年へ引き継がれる
  • 選手の経験が体系化され「伝統」になる
  • 指導者がすべてを決めないことで主体性が育つ

選手は常に、「今の自分に必要な補強は何か」を考え続ける。この思考習慣が、競技人生の後半まで生きる自律性を形作る。

多様な刺激で「走りの感覚」を育てる

バリエーション豊かなトレーニング

浜松市立の練習は、運動刺激のバリエーションが極めて豊富だ。

  • TRX(体幹・骨盤の安定)
  • メディシンボール(連動性と出力)
  • 坂ダッシュ(接地・姿勢・押し込み)
  • タイヤ引き(軸と推進力)
  • ジャンプ系(弾性)
  • ミニハードル(リズムと接地)

多様な刺激が、選手の身体感覚を立体的に育てていく。

松本奈菜子がこの環境で得たもの

技術的側面――身体操作能力の向上

松本はこの練習文化の中で、以下の技術的能力を培った。

  • 技術の深い理解
  • 身体操作能力の向上
  • 接地・姿勢・骨盤操作の質の向上
  • 中間疾走の安定感の増大

認知的側面――レース構造の理解

認知的な側面でも、大きな成長があった。

  • 自己分析力の獲得
  • レース構造を理解できるようになった
  • 400mに必要な思考様式の習得
  • スプリントの原理理解

主体性の確立――自分で考える力

そして最も重要なのは、主体性の確立である。

  • 練習の意味を自分で説明できる力
  • 自分の走りを言葉にし、修正できるようになった

これらは、後の日本選手権優勝へとつながる競技的基盤そのものであった。

松本奈菜子の走りを変えた7つの要素

浜松市立高校の環境が松本の走りを変えた要素を整理すると、以下の7つに集約される。

  1. 動きの理解を最重要視する哲学
  2. 接地・骨盤・水平移動を作り直すドリル
  3. 軸と股関節を育てる補強文化
  4. 選手同士の議論と相互コーチング
  5. 主体性を育てる補強当番制
  6. 練習の意味を言葉にさせる指導
  7. 多様な刺激で感覚を磨く育成体系

中学期の基盤と高校期の技術体系の融合

中学期に培った800m・1500mのスタミナと持久性に、浜松市立高校の技術体系と学びの文化が重なった。

その交点で、松本奈菜子という400mランナーが形作られていった。

それは完成ではなく、世界へ向かうための、確かな構築過程であった。

考察①集団で学び、個が育つ仕組み

知識が共有される場としてのチーム

浜松市立の陸上部は単なる練習の場ではない。それは、知識が個人の頭の中だけに留まらず、選手同士の相互作用の中で共有され、発展していく「学びの共同体」として機能している。

学習理論では、こうした環境を「実践共同体」と呼ぶ。知識は個人が独占するものではなく、共同体の中に分散して存在し、対話や観察を通じて伝達されていく――この考え方が、浜松市立の練習文化の核心にある。

先輩から後輩へ――段階的な技能伝承

「選手が選手を指導する」という相互コーチング文化は、学習理論における「正統的周辺参加」という概念と深く結びついている。

新入生は当初「周辺的な参加者」として先輩の動作を観察する。やがて技術についての議論に参加するようになり、最終的には後輩を指導する「完全な参加者」へと移行していく。

この過程で重要なのは、知識の伝達が一方向的な講義ではなく、双方向的な対話を通じて行われる点である。「今の接地、前に入りすぎたね」「骨盤が立っていないんじゃないかな?」という具体的なフィードバックは、観察者自身の運動感覚と視覚情報を統合する認知プロセスを活性化させる。

脳科学的には、他者の動作を観察することで、自分自身の運動プログラムも精緻化される可能性が指摘されている。

暗黙知を言葉にするプロセス

400m走における「ペース感覚」「疲労時の技術維持」「ラスト100mでの踏ん張り方」といった要素は、本質的に言葉にしにくい「暗黙知」である。

知識創造理論では、この暗黙知を言葉や図表などで表現できる「形式知」へ変換する「表出化」が、組織的な知識創造の鍵とされている。

浜松市立の「練習後に気づきを言葉にする」「技術を対話で共有する」という文化は、まさにこの表出化プロセスである。個人の身体感覚が言葉になり、共有されることで、チーム全体の技術水準が底上げされる。

これは、個人種目でありながら「集団で強くなる」という、一見矛盾する現象を可能にする仕組みなのである。

考察②自分で考える力を育てる環境

能動的な学習者として育てる

「補強メニューを選手が当番制で考える」という制度は、教育心理学における構成主義の実践例である。この理論では、学習者は受動的な知識の受け手ではなく、能動的な知識の構築者として位置づけられる。

自分を観察する力の育成

「今の自分に必要な補強は何か」を常に考えさせる環境は、「自分で自分を観察する力」を体系的に育てる。

この力は、運動学習研究において「メタ認知」と呼ばれ、「自分の学習過程を監視し、制御する高次の機能」と定義されている。

400mという種目は、レース中の多様な変数(ペース、疲労度、他選手の動き、風向)を統合しながらリアルタイムで戦略を調整する能力を求められる。浜松市立で日常的に鍛えられるメタ認知能力は、この種の複雑な判断課題への適応を可能にする。

自己調整学習の確立

学習理論では、熟達者は「計画を立て」「実行し」「振り返る」という循環を自律的に回すとされている。これを「自己調整学習」と呼ぶ。

浜松市立の「効果の高かった補強は翌年へ引き継がれる」というシステムは、この循環を組織レベルで制度化している。個人の経験が集合的な知識として蓄積され、次世代に継承される――この知識継承の仕組みは、まさに文化の伝達そのものである。

考察③多様なトレーニングがもたらす効果

様々な刺激が身体を作る

TRX、メディシンボール、坂ダッシュ、タイヤ引き、ジャンプ系、ミニハードル――この多様な刺激提示は、脳科学における「経験依存的な可塑性」を最大化する戦略である。

脳と神経系は、与えられた経験に応じて変化し、適応する。多様な運動経験は、この適応能力を最大限に引き出す。

運動の柔軟性を育てる

運動学習理論では、多様な練習条件下での経験が、柔軟な運動プログラムの形成を促すとされている。単一の動作パターンを反復するよりも、類似しているが微妙に異なる動作を多様に経験する方が、応用の効く技能が獲得される。

400mでは、スタート局面、加速局面、最高速度維持局面、減速抑制局面という質的に異なる局面が連続する。各局面で求められる筋肉の使い方、関節の動かし方、身体重心のコントロールは大きく異なる。多様なトレーニング刺激は、この種の局面間の移行に必要な運動制御の柔軟性を育てる。

身体感覚を研ぎ澄ます

多様な運動刺激は、筋肉や腱、関節からのフィードバック情報の多様性を高める。脳科学的には、身体を感じ取る脳の領域における身体表現を精緻化する効果がある。

400mラスト100mでの極限的疲労時、視覚情報が劣化する中で、この身体内部からの感覚が技術的な崩れを防ぐ最後の砦となる。浜松市立の多様性重視のトレーニングは、この種の感覚精度を高める戦略として合理的である。

考察④組織文化の形成と維持

「学びが循環する文化」という資産

「学びが循環する文化」という表現は、組織心理学における「学習文化」の体現である。組織文化理論では、文化は「基本的な信念」「支持される価値観」「目に見える実践」の三層構造を持つとされている。

共有された信念

「動きを理解しなければ、走りは変わらない」という信念は、浜松市立陸上部の「基本的な信念」である。これは明文化されない前提であり、新入部員は日常的な相互作用を通じてこの信念を自然と受け入れていく。

この共有された信念が、「なぜこの動きを行うのかを理解しながら身体を作る」という日常的な実践を支えている。

価値観を可視化する実践

「ドリル前にテーマを共有する」「練習後に気づきを言葉にする」といった実践は、「理解を重視する」という価値観を可視化する儀式として機能する。組織心理学では、こうした反復的な儀式が価値観を強化し、新規参入者への文化の伝達を促進するとされている。

特に重要なのは、これらの実践が「やらされる作業」ではなく、選手自身が価値を見出している点である。内側から湧き出る意欲に基づく実践は持続可能性が高く、外部環境の変化に対する文化の強さを高める。

考察⑤松本奈菜子への多面的な効果

浜松市立の練習文化が松本にもたらした効果は、技術的な側面に留まらない。技術理解、自己分析力、身体操作能力、思考様式、スプリント原理の理解、言葉にする能力――これらは相互に関連し合い、統合的な競技力を形成する。

技術的な側面

「接地・姿勢・骨盤操作の質が向上した」という記述は、身体の動きの観点から見れば、運動連鎖の最適化を意味する。

400mでは、200m以降の疲労蓄積期において、股関節を伸ばす主要な筋肉が、もも前側の筋肉からお尻やもも裏側の筋肉へとシフトする必要がある。この動作パターンの転換を可能にするのが、骨盤の操作能力である。

浜松市立の体幹・骨盤重視のトレーニング(TRX等)は、この種の高度な動作制御能力を育てる。

認知的な側面

「レース構造を理解できるようになった」という変化は、400m走者にとって決定的である。400mは単純な全力疾走ではなく、エネルギー配分の最適化が求められる。

生理学的には、最初の150mで瞬発的なエネルギーを使い切り、150m~300mで無酸素的なエネルギーがピークに達し、300m以降は有酸素系の寄与が増大する。この代謝の変化を理解した上で、どの局面でどの程度の出力を維持するか――この戦術的判断能力が、浜松市立の「理解重視」文化の中で育成される。

心理的な側面

「自分の走りを言葉にし、修正できるようになった」という能力は、心理学的には極めて高い自己効力感を示している。

浜松市立の環境では、(1)段階的な成功体験、(2)先輩選手の模倣、(3)仲間からの肯定的なフィードバック、(4)多様なトレーニングを通じた身体感覚の精緻化――これらが統合され、高い自己効力感が形成される。

400mラスト100mでの極限的な苦痛の局面において、「自分は対処できる」という信念が、技術的・精神的な崩れを防ぐのである。

考察⑥文化が個を育て、個が文化を更新する循環

浜松市立高校陸上部の練習文化は、「学習する組織」の理想を体現している。

個人の学びが集団の知識として蓄積され、集団の知識が個人の成長を促進する――この好循環が、持続的な競技力向上を可能にする。

松本奈菜子の事例は、この文化が400m走者育成に及ぼす多面的な効果を実証している。中学期に構築された生理学的な基盤に、浜松市立の技術体系と学習文化が接合されることで、「考える400mランナー」が形成された。

それは単なる技術的な完成ではなく、生理学的、身体運動的、心理学的、認知的な要素が統合された、真に成熟したアスリートの誕生を意味する。

この種の文化は一朝一夕には形成されない。杉井監督の一貫した哲学、選手間の相互作用、制度化された実践の積み重ね――これらが有機的に結合し、持続可能な学習環境が構築される。

スポーツ科学が目指すべきは、個別技術の最適化だけでなく、こうした学習文化そのものの設計と維持なのである。

参考資料:後日掲載します。

 

タグ: 浜松市立高校, 杉井陸也監督, 練習文化, 実践共同体, 学習する組織, メタ認知能力, 相互コーチング, 主体性の育成, 多様性原理, 400m育成, 技術の言語化, 自己調整学習, 組織文化, 暗黙知の形式知化, 正統的周辺参加


免責事項: 本記事は、公式記録および関係団体の公式発表、陸上競技専門メディアの公開記事、ならびに信頼性の高い報道・Web記事を参考資料として作成しています。記事中の競技分析および考察は、運動生理学・スポーツ科学・学習理論等の知見に基づく筆者の見解であり、松本奈菜子選手本人、東邦銀行陸上競技部、浜松市立高校陸上部、および関係諸団体の見解や立場を示すものではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました