技術理解を軸に据える育成者 杉井將彦 — 浜松市立高校陸上部の指導哲学 —

高校時代
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浜松市立高校陸上部を率いる存在

浜松市立高校陸上部の監督、杉井將彦。

全国屈指のスプリンターを育ててきた名門の中心に立つ指導者だが、その指導は、決して声を荒らげるタイプではない。

杉井の指導の根底にあるのは、極めてシンプルで、しかし徹底した哲学だった。

動きを理解したとき、人は初めて変わる。

「走らせる」のではなく、「理解させる」

杉井は、選手をただ走らせない。

練習量や強度よりもまず、「なぜ、その動きをするのか」を問う。

ドリルに入る前、必ず投げかけられる問いがある。

  • いま、どこを使っているのか
  • 身体の軸はどこにあるのか
  • その接地は、次の一歩にどうつながるのか

高校生にとっては、決して容易ではない問いだ。しかし杉井は、答えを与えない。考えさせる。

自分で考える作業を挟めば、選手は必ず工夫を始める。そして、走りが変わる瞬間は、いつも「理解」から始まる。

松本奈菜子にとっての「衝撃」

中距離を主戦場としてきた松本にとって、この指導は衝撃だった。

これまで感覚的にこなしてきた動きが、一つひとつ言葉で問われる。400mに本格的に取り組むのは初めて。スプリンターとしての身体の使い方も、まだ分からない。

それでも、杉井の言葉は否定ではなく、整理だった。

「いまの自分が、なぜそうなっているのか」を明確にしてくれる。

松本は次第に気づき始める。

速くなるために必要なのは、根性でも勢いでもない。理解した動きの再現性なのだと。

主体性を育てる指導スタイル

杉井の指導が特徴的なのは、選手に「任せる」場面の多さにもある。

補強やドリルの工夫、練習後の振り返り——すべてにおいて、選手自身が考え、選択する余地が与えられている。

これは放任ではない。「考える力」を競技力の一部として育てる、明確な意図がある。

だから浜松市立の選手たちは、自分の走りを言語化できる。修正点を自分で見つけ、他者に伝えることができる。

松本が後に見せることになる、レース中の冷静な判断力、安定感を備えた中間疾走、そして高い再現性を志向する走り。それらの基盤は、杉井からの指導の積み重ねの中で、少しずつ形づくられていった。

「杉井監督のもとでなら、もっと成長できる。」

入学当初、松本は不安と期待の入り混じった視線で、自分の走りを見つめていた。

しかし日を追うごとに、その比重は変わっていく。

杉井監督のもとでなら、もっと成長できる。

そう確信できたこと。それこそが、浜松市立高校での競技人生を前に進めた、最大の原動力だった。

個を育て、集団を強くする文化

杉井將彦の哲学は、やがて部全体の「文化」として根づいていく。

選手同士が語り合い、見合い、修正し合う空気。誰か一人の才能に依存しない、厚みのあるチーム力。

この環境こそが、松本奈菜子が400m走者として飛躍するための、最適な土壌となっていく。

 

杉井の指導哲学:「考える力」が走りを変える

「なぜ?」と問いかける指導:意識的な理解が技術を作る

運動を学ぶ方法には、大きく分けて二つの道がある。一つは、何度も繰り返すうちに無意識に身体が覚えていく方法。もう一つは、「なぜそう動くのか」を理解しながら習得していく方法だ。

前者、つまり反復練習を通じた無意識的な習得に依存する指導者は少なくないが、杉井の指導は、後者の「理解しながら学ぶ」ことを重視する。

動きを言葉にする力

「いま、どこを使っているのか」「身体の軸はどこにあるのか」――杉井の問いかけは、選手に自分の動きを言葉で説明させる試みである。

運動学習の研究では、技能を習得する初期段階において、動きを言葉で説明できるようにすることが重要だとされている。特に、中距離から400mへの種目転向期にある松本にとって、既存の走り方を一度「言葉にして」、意識的に作り直すプロセスは欠かせなかったはずだ。

脳科学的に見れば、最初は意識的にコントロールしながら動き、それが徐々に自動化されていくのが理想的な流れである。しかしこの移行には、「なぜそう動くのか」という理解が土台として必要なのだ。

自分で考える力を育てる

杉井が「答えを与えず、考えさせる」アプローチを取るのは、選手の「自分で自分を観察する力」を育てるためだと考えられる。

この力は、トレーニング効果の確認、技術的な問題の自己診断、レース中の戦術的判断など、高度な競技力の基盤となる。

400mという種目は、ペース配分、疲労との向き合い方、ラスト100mでの走りの崩れ防止など、高度な自己観察とコントロールを求められる。杉井の指導が「自分で走りを作る」能力を育てる点は、400m走者育成の本質を捉えていると言えるだろう。

環境が走りを作る:課題設定という指導の技術

杉井の「問いかけ」中心の指導は、運動学習における重要な理論と結びついている。それは、「動きのパターンは、環境、課題、個人の相互作用から生まれる」という考え方だ。

動作の連鎖を意識させる

「その接地は、次の一歩にどうつながるのか」という問いは、一つ一つの動きを切り離して考えるのではなく、動きの連鎖として捉えさせる意図がある。

400mでは、200m以降の疲労蓄積期において、接地時間が長くなり、ストライドが短くなり、上体が前に傾くといった走りの崩れが生じる。この崩れを最小限に抑えるには、疲れても崩れにくい「頑健な動作パターン」の習得が必要である。

身体の動きの観点から見れば、疲労時でも大きな筋肉群(お尻やももの裏側)を効率よく使えるようにすることで、疲れへの耐性が向上する。杉井の問いかけは、こうした動作連鎖の最適化を選手自身に「発見」させる課題設定として機能していると考えられる。

身体の感覚を研ぎ澄ます

「いま、どこを使っているのか」という問いは、自分の身体の状態を感じ取る能力を高める効果がある。

筋肉や腱から送られてくる感覚情報は、動作の微調整に欠かせない。しかし、多くの選手はこの身体内部からの感覚を明確に意識できていない。

杉井監督の指導は、この暗黙的な感覚情報を意識の上に引き上げ、コントロール可能なものとして扱えるよう訓練する。脳科学的には、身体状態を感じ取る脳の領域をより精密にする可能性がある。400mラスト100mの極限的疲労時、この種の精緻な身体感覚が、走りの崩れを防ぐ最後の砦となる。

選手の心を支える指導:自律性・有能感・つながり

杉井の指導スタイルは、スポーツ心理学における重要な理論と深く結びついている。それは、人が最も意欲的に取り組めるのは、「自律性」「有能感」「他者とのつながり」という三つの心理的欲求が満たされた時だという考え方だ。

自分で決める自由

「補強やドリルの工夫、練習後の振り返りにおいて、選手自身が考え、選択する余地を与える」という方針は、自律性の保証そのものである。

スポーツ心理学の研究では、自分で決める自由が保証された環境下では、内側から湧き出る意欲が高まり、燃え尽きのリスクが低下することが分かっている。

特に、400mという種目で長期的に競技を継続するには、外的な報酬(記録、順位)だけでなく、「走ること自体の意味」を見出す内側からの意欲が欠かせない。杉井監督の指導は、この種の持続可能な意欲の構造を作り上げていると言えるだろう。

「自分でできた」という実感

「考える作業を挟めば、選手は必ず工夫を始める」という杉井監督の言葉は、有能感を段階的に積み上げていくプロセスを示している。

学習理論では、現在の能力を少しだけ超える課題設定が、最も効果的な学習を促すとされている。杉井監督は答えを与えないことで、選手が「自力で発見した」という成功体験を積み重ねさせる。

この種の達成経験は、外部から教えられた知識よりも強固な「自分はできる」という信念を形成する。400mにおける極限的な苦痛の局面で「自分は対処できる」という信念の源泉となるのだ。

学び合う仲間との関係

「選手同士が語り合い、見合い、修正し合う空気」という記述は、学習理論における「実践共同体」という概念と重なる。この理論では、知識は個人の頭の中だけでなく、仲間同士の相互作用の中に分散して存在するとされている。

杉井監督の指導は、個別指導だけでなく、選手間の対話を通じた集団での学習を促進する。400mの技術的・戦術的な知識が、言葉にできる形で共有されることで、チーム全体の競技力向上が実現される。

これは、個人種目でありながら「集団で強くなる」という、一見矛盾する状況を可能にする仕組みなのである。

言葉にできる技術:安定したパフォーマンスの鍵

「修正点を自分で見つけ、他者に伝えることができる」という能力は、スポーツ科学における「振り返る実践」の体現である。研究によれば、熟達者は「動きながら考える」と「動いた後に考える」を両方行うとされている。

技術の再現性を高める

400mでは、予選・準決勝・決勝と複数のレースを通じて、安定したパフォーマンスを発揮する再現性が求められる。この再現性は、動作の自動化だけでは不十分であり、「なぜそう動くのか」という理解に基づく意識的なコントロールが必要である。

運動学習の理論では、多様な練習条件下での経験が、柔軟な運動プログラムの形成を促すとされている。杉井の「理解に基づく工夫」の奨励は、固定的な動作パターンではなく、状況に応じて調整できる走りの構築を促していると考えられる。

レース中の冷静な判断

「レース中の冷静な判断力」は、認知的な柔軟性の表れである。400mでは、風向、レーン配置、他の競技者の動き、自分の疲労度など、多様な要素を統合しながらペース戦略を調整する必要がある。

この種の高度な判断機能は、脳の前頭部の実行機能に依存する。杉井の「問いかけ」指導は、日常的に脳の前頭部を活性化させることで、レース中の認知的な負荷への耐性を高めている可能性がある。

理解が身体を変える:認知と身体の循環

杉井の指導哲学は、「身体は理解から変わる」という運動学習の本質を体現している。

400m走者に求められる複合的な能力――爆発的なスピード、持久力、技術的な安定性、戦術的な判断――の習得には、単なる反復練習では不十分であり、認知的な理解に基づく意識的なコントロールが欠かせない。

松本奈菜子が後に示す「安定感を備えた中間疾走」「高い再現性」は、杉井の認知的アプローチによって育成された「自分を観察する力」の結果であると考えられる。

「この指導者のもとなら変われる」という松本の確信は、心理学的には高い自己効力感の形成を意味し、後の飛躍を可能にする心理的な資本となった。

理解が身体を導き、身体が理解を深める――この循環的なプロセスこそが、400m走者育成の本質なのである。

参考資料:後日掲載します。

 

※本記事は、公式記録および関係団体の公式発表、陸上競技専門メディアの公開記事、ならびに信頼性の高い報道・Web記事を参考資料として作成しています。記事中の見解および考察は運動生理学・スポーツ科学等の知見に基づく筆者の見解です。杉井將彦監督の実際の指導方法等を完全に把握したものではなく、あくまで外部からの推察に基づく分析である点をご了承ください。

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