日本選手権で目の当たりにした「強さ」
松本奈菜子にとって、日本陸上競技選手権大会への初出場は、単なる全国大会デビューにとどまらない意味を持っていた。高校2年生のその年、400mに出場した松本は、会場で東邦銀行陸上競技部の選手たちの強さを目の当たりにし、強い衝撃を受けることになる。
強烈な印象として刻まれた東邦銀行
後年、松本は当時の心境を公式ブログで次のように振り返っている。
私が東邦銀行の陸上部の皆さんを知ったのは高校2年生の時でした。その年の日本選手権で400mに出場した際に、東邦銀行のみなさんが強くて、この実業団はどうなっているんだろうなぁと思ったのを鮮明に覚えています。ある種、不思議な空間がそこにはあるような気がしていました。その頃から私は東邦銀行というチームに憧れを持つようになりました。
強さ以上に心を打ったもの
トップレベルの選手たちが放つ集中力、レース全体を包み込む独特の空気感。
それらは、高校生だった松本にとって、単なる「強さ」以上に深く印象に残るものだった。
「ある種、不思議な空間がそこにはあるような気がしていました」——この言葉が示すように、松本が感じたのは、言葉では説明しきれない、しかし確かに存在するチームの特別な雰囲気だった。
憧れが現実へと変わった瞬間
高校生の頃に芽生えた純粋な憧れは、6年後の2019年、現実のものとなる。
松本は東邦銀行に入社し、かつてスタンドから見つめていたチームの一員として、新たな競技人生を歩み始めた。念願のチームで競技者として新たなキャリアをスタートさせることになった。
進路を照らした出会い
高校2年時の東邦銀行との出会いは、松本奈菜子の競技人生において、静かに、しかし確かに、その後の進路を照らす灯となっていたのである。
考察 — 憧れが未来を切り拓く力
憧れが持つ特別な力
松本奈菜子の高校2年時における東邦銀行陸上競技部との出会いは、スポーツ選手のキャリア形成において極めて重要な意味を持つ経験である。この出会いが6年後の進路選択につながった過程には、心の成長、将来への展望、そして組織への共感といった、複数の要素が深く関わっている。
憧れの定義
心理学では「憧れ」は他者の卓越性への素直な称賛であり、「自分もそうなりたい」という前向きな気持ちを生み出すとされる。松本の「東邦銀行というチームに憧れを持つようになりました」という言葉は、まさにこの純粋な憧れの感情を表している。東邦銀行の選手たちの姿に、松本は将来の理想的な自分の姿を重ね合わせたのである。
言葉にできない「空気感」
「ある種、不思議な空間がそこにはあるような気がしていました」という記述は、言葉では説明しきれないが確かに感じられる、チームの特別な雰囲気を捉えている。
この特別な雰囲気は、選手間の深い信頼関係、共有された価値観、そして高い競技志向——これらが一体となって生み出される、チーム独特の空気である。
重要なのは、高校2年生の松本がこの微妙な雰囲気を感じ取れたという事実である。これは、彼女自身が既に高い競技志向を持ち、トップレベルのチームが持つ特性を見抜く感性を備えていたことを示している。松本が東邦銀行に惹かれたのは偶然ではなく、自身の競技者としての価値観との一致を直感的に感じ取った結果なのである。
将来への夢が形になっていく過程
6年という時間がもたらしたもの
高校2年(16歳)から実業団入社(22歳)までの約6年という時間は、将来の夢を現実にするために最適な長さだった。あまりに遠い将来は漠然としていて力になりにくく、あまりに近い将来は準備の時間が足りない。6年という距離は、具体的なイメージを保ちながら、成長と準備の余地を残す理想的な期間であると言えるだろう。
この期間に松本は、高校3年での静岡国際と日本選手権での女子400mでの優勝、インターハイ女子400mでの準優勝、大学でのさらなる成長を経験した。これらの達成が、「東邦銀行で戦える」という確信を段階的に育てていった。6年という猶予が、理想を少しずつ現実に近づけることを可能にしたのである。
心の中で育まれた憧れ
高校2年時に感じた「この実業団はどうなっているんだろう」という好奇心と、「憧れを持つようになりました」という前向きな気持ち。これらが心の中で育まれ、進路選択の際に東邦銀行が自然な選択肢として浮かび上がった。
そして高校2年から実業団入社までの6年間、松本は継続的に東邦銀行を目標として、たゆまぬ努力を続けた。憧れは単なる一時的な感情ではなく、長い時間をかけて将来への道筋を照らす灯となっていったのである。
東邦銀行というチームの魅力
卓越性の象徴
東邦銀行陸上競技部は2011年創設時、日本記録保持者を中心に創設された。この「トップレベルの象徴」が、チームの魅力の中核となっている。
日本記録保持者という存在は、「ここでは世界レベルを目指せる」というメッセージを暗黙のうちに伝える。これは単なるイメージではなく、実質的なトレーニング環境の質を保証するものである。世界水準の選手と日常的に練習することで、ペース感覚、技術水準、心の基準が引き上げられる——仲間から学び、互いに高め合う環境こそが、チームの魅力の核心なのである。
地域に根ざした活動の意味
東邦銀行陸上競技部は、「地域に根ざしたアスリートとして活躍し、地元福島の子どもたちに勇気や希望を与える活動」を展開している。このミッションがチームの魅力を高める理由は、競技活動に深い意味を与えるからである。
多くのアスリートは、自分の競技活動の社会的意義を求めている。単なる記録追求だけでなく、「誰かの役に立つ」という価値が、競技活動に深い意味を与える。東邦銀行の地域貢献活動は、こうした思いに応えるものである。
特に、2011年創設という時期は東日本大震災直後であり、福島という地域は特別な意味を持つ。「復興への貢献」という社会的背景が、チームのミッションに深い意義を与えていた。
チームに息づく特別な文化
東邦銀行陸上競技部には、創設時から受け継がれてきた特別なチーム文化がある。選手たちが共有するトレーニングの考え方、互いを尊重し合うコミュニケーション、そして世界を目指すという共通の目標——これらが一体となって、チームの強い結束力と独自の雰囲気を形成している。
松本が感じた「不思議な空間」の正体は、こうしたチーム文化が生み出す一体感だったのだろう。強い結束力を持つチームは、外部から見ても明確に分かる独自の雰囲気を放つ。松本はそれを、高校2年生という若さで敏感に感じ取ったのである。その感性の鋭さこそが、後に彼女がこのチームの一員となる必然性を物語っていた。
組織を知る準備期間の大切さ
段階的に深まる理解
組織に加わる前に、その組織の価値観や文化を学んでいくプロセスは、実際の加入後の適応を円滑にする。このプロセスが適切に機能すれば、組織に入ってからのギャップが少なく、長く活躍できる。逆に、このプロセスが不十分だと、理想と現実の違いに戸惑い、早期に離れてしまうリスクが高まる。
松本の場合、6年間という長い準備期間が、東邦銀行という組織への現実的な理解を深めた。日本選手権をはじめとする大きな舞台で何度か出会い、選手の競技スタイル、チームの雰囲気を感じ取り続けることで、偏りのない組織像が形成されていった。
憧れと現実のバランス
憧れを抱いて組織に入ると、想像していたイメージと実際の環境との違いに戸惑うことがある。この理想と現実のギャップが、組織での活動を続けることを難しくする場合もある。
憧れを抱いて組織に入ると、想像していたイメージと実際の環境との違いに戸惑うことがある。この理想と現実のギャップが、組織での活動を続けることを難しくする場合もある。
しかし松本の場合、このリスクは低かったと考えられる。理由は三つある。第一に、彼女自身が高校3年で日本チャンピオンとなり、東邦銀行選手と同等の競技レベルに到達したこと。これにより、「選手として対等」という現実的な自己評価が形成されていった。第二に、6年間という時間が、組織の多面的な理解を可能にしたこと。第三に、浜松市立での「理解を重視する」文化が、理想化ではなく現実的に物事を見る習慣を育てていたこと。松本は憧れを抱きながらも、冷静に自分と組織の関係を見つめる力を身につけていったのだろう。
憧れから確信へ
心が選んだ道
実業団選択は、競技環境、経済的な待遇、引退後のキャリア、地理的な条件、組織文化など、複数の要素を考慮する複雑な意思決定である。
松本の場合、東邦銀行への憧れという思いが、進路選択の核心にあった。高校2年時に芽生えた「このチームで走りたい」という純粋な気持ちが、6年間という時間をかけて少しずつ確信へと変わっていった。そして実業団を選ぶ段階になったとき、競技環境や待遇といった様々な条件を検討する中で、松本の心はすでに答えを知っていたのかもしれない。
自分らしくいられる場所
松本が東邦銀行を選択した深い理由は、「競技者としての価値観の一致」にあったのではないだろうか。東邦銀行の「世界を目指す」という志向、「記録追求」という価値観が、松本の内面的な基準と合致していた。
待遇や地理的な便利さよりも、「自分らしくいられる」組織かどうか——この深いレベルでの一致が、長期的な活躍と心の充実につながると考えられる。松本が東邦銀行を選んだのは、そこに自分の居場所を見出したからなのかもしれない。
偶然と必然が交わる場所
出会いを活かす準備
キャリアは完全に計画できるものではなく、予期しない出会いや出来事が重要な役割を果たすことがある。松本の東邦銀行との出会いは、一見偶然のように見える。
しかし重要なのは、この偶然を活かす準備ができていたことではないだろうか。松本が東邦銀行の魅力を認識できたのは、既に高い競技志向と感性を備えていたためと考えられる。同じ場面に居合わせても、それを「重要な出会い」として認識しない選手もいるだろう。偶然の出会いを必然の進路へ変える——この力が、キャリアを切り拓く主体性の一つの形なのかもしれない。
憧れが未来を形づくる
高校2年時の東邦銀行との出会いは、松本奈菜子のキャリア形成において三つの重要な役割を果たしたと考えられる。
第一に、松本に将来の理想的な自分の姿を具体的に示し、長期的な目標を与えた。
第二に、進路の選択肢を松本の心の中に位置づけ、6年間かけて評価し続けることを可能にした。
第三に、松本の組織への段階的な理解を深め、実際に加わるための心の準備を整えさせた。
この事例が示唆するのは、若いアスリートにとって「トップレベルとの早期の出会い」が持つ意味の大きさである。物理的に同じ空間に居合わせ、雰囲気を感じ取り、具体的なイメージを形成する——この種の直接的な経験が、漠然とした「プロになりたい」という願望を、具体的な進路計画へと変えていくことがある。
スポーツ組織にとっても、この視点は示唆に富む。大会での存在感、チームの雰囲気、社会的な活動——これらすべてが、次世代の選手の進路選択に影響を与えうる。組織の魅力は、待遇や施設という物理的な要素だけでなく、「そこに立つ選手たちが放つ空気」という心理的な要素にも深く関わっているのかもしれない。東邦銀行が松本の心を捉えたのは、まさにこうした目に見えない魅力の力であったのだろう。
参考資料:後日掲載します。


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