主将として全体を見る視点
高校3年生を迎えるにあたり、松本奈菜子は、浜松市立高校陸上部女子主将として、チームの先頭に立っていた。高2の時点から主将を任されていた松本は、仲間をまとめ、練習の空気を整え、チームの軸としての役割を担ってきた。
エースとして結果を求められる立場でありながら、主将として全体を見る視点も欠かせない。その責任は決して軽いものではなかったが、松本は逃げることなく受け止め、むしろその重圧を糧とするかのように、走りに一層の緊張感と気迫をまとっていった。
チームを背負う覚悟 — 重圧が走りを研ぎ澄ます
主将という立場は、ときに自分の競技だけに集中することを許してくれない。
仲間の状態を気にかけ、声をかけ、練習の流れを止めない。そのすべてが日常となる中で、松本の振る舞いは次第にチームの指針となっていった。
責任を背負うほど、走りは研ぎ澄まされていく。
練習に向かう姿勢、一本一本の集中度、レースを想定した緊張感——。
高校最後のシーズンを前に、松本の中には「主将としても、選手としても、やり切る」という静かな覚悟が確かに芽生えていた。
指導者が口にした確信 — 「去年の杉浦より上」
その成長を、誰よりも近くで見ていたのが、顧問の杉井將彦である。
春先の段階で、杉井は松本の資質を高く評価し、次のような言葉を口にしていた。
「去年の杉浦より上」
それは、同校の歴史に名を刻む杉浦はる香の高校時代を引き合いに出したうえでの発言だった。
全国レベルで活躍した先輩と比較してなお、松本の潜在能力がすでにそれを上回る領域にある——。その言葉には、指導者としての確信が込められていた。
ラストイヤーへ向けて — 覚悟と期待が交差する春
主将としての責任、エースとしての期待、そして高校最後の1年。
それらすべてを背負いながら迎えた新シーズンは、松本奈菜子にとって、これまで以上に重く、同時に特別な意味を持つものであろう。
その重圧をどう力へと変えていくのか。
この春に見せ始めた表情と走りは、やがて訪れる大舞台への序章となっていく。
考察①リーダーシップ役割が競技パフォーマンスに及ぼす多面的効果
リーダーシップ役割の二面性
松本奈菜子の高校3年時における「主将兼エース」という二重役割は、複数の役割を同時に担うことの効果を考える上で興味深い事例である。一般に、複数の役割を同時に果たすことは心理的な負担を増大させるが、特定の条件下では逆に自信と意欲を高めることがある。
役割の重なりがもたらす効果
組織やチームに関する理論では、複数の役割を同時に遂行することが心理的なストレスとパフォーマンス低下を招きやすいとされる。主将としての「チーム全体への配慮」と、エースとしての「個人パフォーマンスへの集中」は、一見すると相反する要求である。
しかし別の視点では、複数の役割が相乗効果を生む可能性も指摘されている。具体的には
(1)様々な資源へのアクセスが広がる
(2)自己認識が多様化する
(3)周囲からの支援が増える
(4)自信が向上する
これらの利益が負担を上回る場合、複数の役割は心理的な健康とパフォーマンスを促進する。
松本の「重圧を糧とする」「責任を背負うほど、走りは研ぎ澄まされる」という姿勢は、役割の重なりがもたらす正の効果を示唆している。
同じ状況でも捉え方には個人差がある
ストレスに関する理論では、同じ状況でも個人によって「脅威」と捉えるか「挑戦」と捉えるかが異なるとされる。脅威として捉えると、要求が自分の能力を超えていると感じ、不安や回避行動が生じる。挑戦として捉えると、困難ではあるが対処可能と感じ、適度な緊張感と前向きな行動が生じる。
松本の「逃げることなく受け止め」「糧とする」という態度は、典型的な挑戦としての捉え方である。この捉え方を形成する要因として、(1)過去の成功体験(2013年の日本選手権決勝進出など)(2)高い自己効力感(3)周囲からの支援(杉井監督、チームメイト、家族)の存在が考えられる。
神経生理学的には、挑戦として捉えることで交感神経系が適度に活性化され、これが認知機能と運動パフォーマンスを最適化する。松本の場合、挑戦に対する適度な心理的緊張が「走りの研ぎ澄まし」として機能したと推察される。
考察②主将役割が育成する心理的・認知的能力
視野拡大と状況認識力の向上
「全体を見る視点」の獲得は、状況を的確に把握する能力の向上を意味する。状況把握とは、環境の要素を知覚し、理解し、予測する高次の認知機能である。
主将として「仲間の状態を気にかけ、練習の流れを止めない」という役割は、日常的に状況認識能力を鍛える機会となる。この能力は、400mレース中の戦術的判断にも転用される。レーン配置、風向、他選手の疲労度、自己の残存エネルギー——これらを統合してペース戦略を調整する能力は、まさに状況認識そのものである。
脳科学的には、前頭前野の特定部位が状況認識の中枢とされる。リーダーシップ役割による日常的な脳活動が、レース中の認知的制御能力を向上させた可能性がある。
社会的責任感による動機づけ強化
「チームを背負う覚悟」は、社会的責任感に基づく動機づけである。松本の動機は、自分自身の成長という内的なものに加えて、「チームのために」という利他的な要素を併せ持っていた。自己を超えた価値への献身が、逆説的に自己の潜在能力を引き出すことがある。
脳科学的には、他者への貢献行動は脳内で喜びや満足感を生み出す。チームへの貢献がもたらす充実感が、トレーニングへの内発的動機づけを維持・強化すると考えられている。
考察③指導者の期待表明 — 期待が現実を創る
「去年の杉浦より上」という期待の心理的影響
杉井監督の「去年の杉浦より上」という発言は、指導者の期待が学習者のパフォーマンスを実際に向上させるという現象の実例である。この効果は1960年代の研究以来、繰り返し実証されてきた。
このメカニズムは複層的である。
第一に、期待を受けた本人の自己効力感が向上する。「権威ある指導者が自分の能力を高く評価している」という認識は、自信の強力な源泉となる。
期待は指導者の行動を変容させる。高い期待を受けた選手には、より多くの練習機会、詳細なフィードバック、挑戦的な課題が提供される傾向がある。この手厚い指導が、実際のパフォーマンス向上を促進する。
第三に、期待は周囲の社会的環境を変える。チームメイトも松本への期待を高め、練習での競争強度が上昇する。この社会的環境の変化が、トレーニング効果を増幅する。
比較基準としての杉浦はる香
「杉浦より上」という比較は、単なる期待表明を超えた戦略的意義を持つ。適切な比較対象の設定が、自己評価と動機づけにとって重要であることが知られている。
杉浦は松本にとって「少し上の比較対象」である。同じ高校、同じ種目、わずか1学年差——この近さが、「自分も到達可能」という認識を生む。一方、あまりに遠い対象(例:世界記録保持者)は、逆に無力感を生じさせる。
また、杉浦という具体的なモデルの存在は、抽象的な目標よりも効果的である。「日本一になる」という目標よりも、「杉浦のような走りをする」という目標の方が、具体的な行動指針(ペース配分、技術要素、トレーニング内容)を提供する。
考察④責任感が生理学的覚醒を最適化する
適度なストレスホルモンの効果
「責任を背負うほど、走りは研ぎ澄まされる」という現象は、神経内分泌学的には適度なストレス応答の促進効果として説明される。心理的ストレスは脳内分泌系を活性化し、ストレスホルモンの分泌を増加させる。
重要なのは、ストレスホルモンとパフォーマンスの関係が逆U字型である点である。低すぎれば覚醒不足、高すぎれば過覚醒となり、いずれもパフォーマンスを損なう。適度な水準では、注意集中、判断速度、筋力発揮が最適化される。
松本の場合、主将という責任が適度なストレス水準を維持し、トレーニング・レースでの覚醒を最適化したと考えられる。
注意制御の精緻化
「練習に向かう姿勢、一本一本の集中度、レースを想定した緊張感」の向上は、注意をコントロールする機能が洗練されたことを示している。脳科学では、特定の脳領域が注意制御の中枢とされ、この領域の活性化が課題遂行能力を向上させることが知られている。
主将役割を通じて日常的に高い集中状態を維持することが、この脳領域の働きを強化した可能性がある。脳は繰り返し使われる機能を発達させる性質を持つため、日々の高度な注意要求が脳の構造や機能を変化させたと考えられる。こうした日常での集中力トレーニングの効果が、競技場面での注意制御能力にも転移したと推察される。
考察⑤期待と実力の相互作用
高目標設定の動機づけ効果
目標設定に関する理論では、具体的で困難な目標が、抽象的で容易な目標よりも高いパフォーマンスを引き出すとされる。杉井監督の「杉浦より上」という評価は、松本に具体的(前年の日本選手権優勝レベル)かつ困難(日本歴代2位の記録を超える)な到達点を示すものであり、理論的に最適な目標設定を促すものであった。
重要なのは、この到達点が「困難だが達成可能」と認識される範囲にある点である。達成可能性が極めて低い目標は、逆に動機づけを損なうことが知られている。杉井監督の「すでにその領域にある」という評価が、この微妙なバランスを保証し、松本が高い目標へコミットすることを可能にした。
自己効力感と目標へのコミットメントの相互強化
自己効力感と目標へのコミットメントは相互に強化し合う。高い自己効力感が困難な目標へのコミットメントを可能にし、目標達成への努力が自己効力感をさらに高める——この正のフィードバックループが、長期的なパフォーマンス向上を駆動する。
松本の場合、2013年の成功体験が自己効力感を確立し、杉井の期待表明が高い目標へのコミットメントを促進した。この二つの心理的資源が相乗効果を生み、高校3年時の飛躍を準備したと考えられる。
考察⑥主将経験の長期的効果
主将としての経験で獲得される能力は、競技引退後も持続する「メタスキル」である。具体的には、(1)状況認識能力、(2)対人コミュニケーション、(3)問題解決能力、(4)ストレス管理、(5)責任遂行力——これらは、職業生活における汎用的能力として転移する。
スポーツで獲得された心理的・社会的スキルが、適切な働きかけにより他領域へ転移することが知られている。松本の主将経験は、単なる高校3年間の役割ではなく、生涯にわたる心理的資本の形成期間として位置づけられるだろう。
考察⑦役割が人を育て、人が役割を超える
松本奈菜子の高校3年時における主将兼エース役割は、役割の蓄積がもたらす正の効果を示す事例である。リーダーシップ役割が視野の拡大、動機づけの強化、注意制御の精緻化をもたらし、競技パフォーマンスを促進した。
杉井監督の「去年の杉浦より上」という期待表明は、期待が現実を創造するメカニズムを通じて、松本の自己効力感と目標へのコミットメントを最適化した。具体的な比較対象の設定、適度な困難度、権威ある発信源——これらの要素が統合され、期待が現実を創造する過程が始動した。
重要なのは、この心理的プロセスが実質的な能力基盤に裏打ちされている点である。2年間の浜松市立での育成、2013年の成功体験、そして3年時の主将役割——これらが段階的に積み重なり、高校最終年での飛躍を可能にする心理的・生理学的基盤が完成した。
「覚悟と期待が交差する春」は、単なる新シーズンの開始ではなく、長期的な成長プロセスの臨界点到達を意味していたのである。
参考資料:後日掲載します。
※本記事は、陸上競技専門メディアの公開記事、ならびに信頼性の高い報道・Web記事を参考資料として作成しています。記事中の競技分析および考察は、運動生理学・スポーツ科学等の知見に基づく筆者の見解であり、松本奈菜子選手本人、東邦銀行陸上競技部、および関係諸団体の見解や立場を示すものではありません。
パーマリンク: nanako-matsumoto-captain-ace-year3
タグ: 松本奈菜子, 高校3年, 主将, エース, リーダーシップ, 浜松市立高校, 杉井將彦, ピグマリオン効果, 役割蓄積, 自己効力感


コメント