【2019年度・第11戦】第74回国民体育大会―シーズン終盤の記録低下が示した「練習不足」の意味 ―

2019年度
2019年度東邦銀行1年目
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大会概要

大会名: 第74回国民体育大会
開催日: 2019年10月4日 – 8日
会   場: 笠松運動公園陸上競技場(茨城県ひたちなか市)

レース結果

女子400m

記 録: 55秒42

順 位: 4位

松本奈菜子のコメント

練習不足を感じるレースでした。ちゃんと走れないことが分かったので、試合は続くが走りきれるようにしたいです。

考察①:55秒42という記録推移――シーズン終盤の深刻な低下

国民体育大会における松本の55秒42は、2019年シーズンを通じた記録推移の中で、顕著な後退を示している。時系列で整理すると、その深刻さが明確になる。

  • 静岡国際(5月3日): 54秒45
  • 木南記念(5月6日): 54秒14
  • 日本選手権(6月): 53秒70
  • 実業団・学生対抗(7月): 54秒31
  • 全日本実業団(9月): 54秒35
  • 国民体育大会(10月): 55秒42

日本選手権の53秒70から約1.7秒、直前の全日本実業団54秒35からも1秒以上の後退。この急激な低下は、単なる調子の波では説明できない。統計的に見ても、トップアスリートの同一シーズン内での記録変動は通常±0.5秒程度に収まることが多い。1秒以上の低下は、急性傷害、急性疾病、慢性疲労、心理的消耗のいずれかを示唆する深刻な状態であると考えられる。

考察②:「練習不足」という言葉の生理学的解釈

松本が「練習不足」と表現した状態を、額面通りに受け取ってはならない。この言葉が示すのは、実際には「休養不足による適応的練習の不可能性」である。

スポーツ生理学における過負荷-回復-適応サイクルが崩壊すると、計画されたトレーニング強度や量を消化できなくなる。慢性疲労により十分な負荷をかけられず、結果として選手は「練習不足感」として体験する。これは以下の生理学的機序で説明できる。

オーバートレーニング症候群(OTS): 過度な訓練負荷と不十分な回復の累積により、神経内分泌系が機能不全に陥る状態。安静時心拍数の上昇、睡眠障害、食欲低下、パフォーマンスの持続的低下が生じる。

機能的オーバーリーチング(FOR): OTSより軽度だが、短期的パフォーマンス低下を伴う状態。2-3週間の回復期を経れば正常化するが、その期間は十分なトレーニングを実施できない。

筋グリコーゲン慢性枯渇: 長期シーズン(4-10月)での高強度トレーニング・試合頻度により、筋グリコーゲン貯蔵量が慢性的に低水準となり、高強度運動能力が低下する。

考察③:「ちゃんと走れない」という身体感覚の神経科学的基盤

松本の「ちゃんと走れない」という表現は、運動制御理論における「制御精度の低下」を示していると考えられる。具体的には、ストライド長・頻度の変動増大、接地時間の不安定化、体幹安定性の低下が生じる。

神経科学的には、小脳-大脳基底核-運動皮質のネットワークにおける信号伝達効率が低下している状態である。慢性疲労により神経伝達物質(ドーパミン、セロトニン)のバランスが崩れ、運動プログラムの円滑な実行が阻害される。

さらに、固有受容感覚――筋・腱・関節からの位置・運動情報――の精度も低下する。慢性疲労により固有受容器の感度が低下し、身体の空間的位置認識が曖昧になる。結果として、アスリートは「いつもの感覚と違う」「身体が言うことを聞かない」と体験する。この種の感覚的違和は、客観的パフォーマンス低下(55秒42)よりも先に、主観的に認識される場合が多い。

考察④:「走りきれない」という終盤課題の多層的要因

400mにおける「走りきる」能力は、300m以降での解糖系疲労への耐性に依拠する。この区間では血中乳酸が15-20mmol/Lに達し、筋pHが6.5程度へ低下する。この酸性環境下での筋収縮維持能力が鍵となる。

慢性疲労状態では、乳酸緩衝能の低下、乳酸輸送体(MCT)の機能低下、ミトコンドリア密度の減少により、この能力が損なわれる。結果として、通常よりも早期に(250m付近から)失速が始まる。

もう一つの要因は中枢性疲労――脳からの運動指令の減弱――である。慢性疲労状態では脳内セロトニン濃度が上昇し、運動指令の抑制が亢進する。これは生体保護機構として機能するが、同時にパフォーマンスを制限する。心理学的には「もう無理」「これ以上頑張れない」という認知が、実際の生理学的限界以前に生じる。この「心理的リミッター」が、終盤での追加的努力を阻害する。

考察⑤:7ヶ月連続シーズンの構造的問題

松本の2019年シーズンは、4月(出雲)から10月(国体)まで約7ヶ月に及ぶ。この長期シーズンは、トレーニング科学における「ピリオダイゼーション」の観点から根本的問題を孕んでいる。

Bompaのピリオダイゼーション理論では、年間を準備期、試合期、移行期に分割し、各期で異なるトレーニング目標を設定する。しかし7ヶ月の連続試合期では、高強度トレーニングの継続的実施、試合による生理学的・心理学的ストレス、十分な回復期の欠如が累積する傾向がある。

理想的には、シーズン内に1-2回のピーク――最高パフォーマンス発揮期――を設定する。松本の場合、日本選手権(6月)が明確なピークであり、53秒70という自己ベストに近い記録を出した。しかし、ピーク後の移行期(低強度・低量トレーニング期)を経ずに試合を継続したため、疲労が蓄積し続けたと推察される。

スポーツ生理学では、ピーク状態を4-6週間以上維持することは困難とされる。日本選手権(6月末)から国体(10月初旬)まで約3ヶ月あり、この期間の戦略的休養期設定が不十分だった可能性が高い。

考察⑥:心理的消耗の可能性

スポーツ心理学におけるバーンアウト理論では、長期的な心理的ストレスが、情緒的消耗、達成感の低下、非人格化を引き起こすとされる。

松本の2019年シーズンは、社会人初年度という環境適応ストレス、世界選手権出場を目指したプレッシャー(富士北麓での0.04秒差敗北)、頻繁な試合出場という複合的ストレスに直面した。

「練習不足」という言葉の背後には、「やる気が出ない」「トレーニングに意味を感じられない」という動機づけの減退が潜んでいる可能性がある。これは心理的消耗の初期症状である。

考察⑦:「試合は続くが」という制約が示す構造的問題

松本の「試合は続くが走りきれるようにしたい」という言葉は、短期的対症療法の志向を示している。しかしトレーニング科学の観点からは、慢性疲労・オーバートレーニング状態からの回復には、2-4週間の戦略的休養期が不可欠である。

この種の休養期には、完全休養(1週間)、アクティブリカバリー(軽度有酸素運動、1-2週間)、基礎体力再構築(低強度・高量トレーニング、1-2週間)という段階的プロセスが推奨される。

「試合は続く」という制約の中で戦略的休養を確保することは困難であり、ここに競技システムが抱える構造的問題――シーズン全体を通じた過密な試合日程、都道府県代表としての出場義務、ピリオダイゼーションと整合しない大会配置――が顕在化する。

考察⑧:計画と感覚の乖離――主観的モニタリングの重要性

松本が指摘する「練習不足」感は、客観的なトレーニング計画と主観的身体感覚の乖離を示唆する。トレーニング科学では、客観的負荷(距離、強度、頻度)と主観的負荷(RPE、疲労感)の統合的モニタリングが推奨される。

しかし実際には、多くのトレーニング計画が客観的指標を中心に構成され、アスリートの主観的感覚が十分に反映されない場合がある。結果として、計画上は「十分なトレーニング」でも、アスリートは「練習不足」と感じる――このギャップがパフォーマンス低下として表れることがある。

この種の乖離を防ぐには、日々のトレーニング日誌(客観的負荷+主観的RPE)、週次・月次での選手-コーチ対話、生理学的指標の定期測定(安静時心拍数、血中マーカー)が有効である。松本の高いメタ認知能力――自己の状態を正確に言語化する能力――を活用し、主観的感覚を計画修正へ反映するシステムが今後の課題として浮かび上がる。

考察⑨:三段階の因果構造――自己認識の精緻さ

松本のコメントは、単なる感想ではなく明確な因果構造を内包している。

第一段階・根本原因: 「練習不足」という準備段階への評価。これは単なる練習量の不足ではなくトレーニング内容の質、シーズン後半に向けた積み上げの感覚、レースを走り切れるという確信の欠如といった、準備状態全体への違和感を示す。

第二段階・症状: 「ちゃんと走れない」というレース中の感覚。フォームの安定性、レースリズムの維持、戦略遂行の確実性が本人の理想水準に達していなかったことを意味する。重要なのは、この評価が結果論ではなく、レース中の身体感覚に基づいて語られている点である。

第三段階・課題の明確化: 「走りきれるようにしたい」という具体的認識。400mの最終局面における終盤での粘り、フォーム維持能力、出力の継続性が十分でなかったという、極めて具体的な課題認識を示している。

この三段階の分析能力こそが、浜松市立高校以来の「理解重視」文化と東邦銀行での専門的環境が育成した認知的資質の表れである。

考察⑩:シーズン終盤の危機が示す持続可能性の課題

国民体育大会での55秒42は、松本奈菜子の2019年シーズンにおける深刻な状態を示している。1.7秒という顕著な記録低下は、生理学的・心理学的な疲労の蓄積を表している。

この経験は、トップアスリートの持続可能性――長期的に高パフォーマンスを維持する能力――の難しさを示している。競技システムにおける過密日程、ピリオダイゼーションの設定余地の少なさ、主観的コンディションの反映機会の限定。これらの構造的課題が、個人の努力のみでは対処困難な問題として存在する。

しかし同時に、松本が「なぜ走りきれなかったのかを自覚した」という点は、次のシーズンへ向けた重要な学習である。客観的結果は4位であり、全国大会において依然として高い競争力を有している証でもある。だが松本自身の自己評価は、その結果に満足していない。この結果と感覚のギャップこそが、本大会を競技史的に重要な一戦と位置づける理由である。

2019年シーズンの苦い経験が、2020年以降のトレーニング計画再設計、休養期の戦略的確保、主観的モニタリングの重視という改善へつながることが期待される。国体での経験は「走れなかった記録」ではなく、「なぜ走りきれなかったのかを自覚した記録」として、長期的競技的卓越への逆説的な礎となるだろう。

参考資料:後日掲載します。

※本記事は、公式記録および関係団体の公式発表、陸上競技専門メディアの公開記事、ならびに信頼性の高い報道・Web記事を参考資料として作成しています。記事中の競技分析および考察は、運動生理学・スポーツ科学等の知見に基づく筆者の見解であり、松本奈菜子選手、関係者の方々の見解や立場を示すものではありません。

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