はじめに――2019年という「転換の年」
2019年度は、松本奈菜子にとって「実業団選手として本格的に世界を意識し始めた最初の一年」であった。
結果だけを見れば、優勝、表彰台、入賞、悔しさの残るレース――それらが混在する、決して一直線ではないシーズンである。
しかし競技史的に見たとき、2019年は明確な意味を持つ。
それは「国内で勝つ選手」から「世界基準で自己を測る選手」への移行期であった、という点だ。
シーズン前半(第1戦〜第5戦)――国内トップ層で戦う「基準作り」の時間
シーズン序盤の松本は、安定した走りと確かな実力を示しながらも、まだ「世界」を言葉にする段階には至っていなかった。
この時期の特徴は以下に集約できる。
- フォームの安定
- レース運びの冷静さ
- 国内大会における再現性の高さ
一方で、タイム面では「爆発的な更新」よりも「揃える」ことに主眼が置かれていた印象が強い。
この段階での松本は、実業団選手としての土台を整えるフェーズにあった。社会人1年目という環境の中で、新しいトレーニング体制への適応、チームでの役割理解、競技と仕事の両立――これらの基礎的な調整が進行していた時期である。
静岡国際での54秒45、木南記念での54秒14といった記録は、爆発的ではないが安定している。この安定性こそが、後半での飛躍を準備する基盤となった。
中盤戦(第6戦〜第9戦)――「勝っても満足できない」自己基準の誕生
シーズン中盤に入ると、松本の競技観に明確な変化が生じる。
象徴的なのが、勝利しても「悔しい」と語る場面が増えたことだ。
「53秒前半を出すために来た」――この言葉が示すのは、順位ではなく、自分が設定した基準でレースを評価する姿勢である。
ここから松本は、
- 勝ったかどうか
- 入賞したかどうか
よりも、
- なぜ記録が出なかったのか
- なぜ記録が届かなかったのか
という問いを、自分自身に向け始める。
日本選手権での53秒70という記録は、この転換点を象徴している。3位入賞という結果を得ながらも、松本は「54秒00では満足していない」と語った。この発言は、外的基準(順位)よりも内的基準(自己の潜在能力発揮度)を重視する評価軸への移行を明確に示している。
この段階で、彼女の中にさらなる「世界基準の物差し」が芽生えた。
第10戦 全日本実業団 ――「勝利」と「未達」の同時成立
第67回全日本実業団陸上競技選手権大会は、2019年シーズンの中でも特に象徴的な大会である。
- 女子400m:優勝(54秒35)
- 女子4×100mR:優勝(45秒82)
二冠達成という結果だけを見れば、完璧な大会に映る。
しかし松本自身のコメントは、その印象をはっきりと否定する。
「タイムを53秒前半出すために来たので、この結果になってしまったことが悔しかった。なぜ走れなかったのかちゃんと考えたい」
ここに、勝利よりも未達成を重視する競技者としての姿がある。
目標設定は53秒前半、実際の記録は54秒35――約1秒の乖離。この1秒のギャップを、松本は「結果」ではなく「課題」として捉えた。スポーツ心理学における「パフォーマンス・ギャップ」の一例であり、客観的成功(二冠)と主観的失敗(目標タイム未達)の並存は、トップアスリートにおける評価基準の多層性を示している。
この大会を境に、松本は完全に「国内タイトルホルダー」ではなく「世界水準で自己評価する選手」へと移行した。
第11戦 国体 ――「走りきれない」という自覚
第74回国民体育大会は、2019年シーズンの中でも最も内省的なレースだったと言える。
- 記録:55秒42
- 順位:4位
結果以上に重要なのは、松本自身の自己評価だ。
「練習不足を感じるレースでした。ちゃんと走れないことが分かったので、試合は続くが走りきれるようにしたいです」
この言葉は、単なるコンディション不良の報告ではない。準備不足、技術の不安定さ、終盤での失速――それらを因果関係として捉え、「走りきれない」という言葉で総括している。
日本選手権の53秒70から約1.7秒の後退という顕著な変化は、慢性疲労・オーバートレーニング状態における急性的パフォーマンス低下を示唆している。4月から10月まで約7ヶ月に及ぶ長期シーズンにおける疲労累積が、ここで顕在化したと考えられる。
しかしこれは敗北ではなく、課題構造を言語化できたレースだった。「なぜ走りきれなかったのかを自覚した」という点が、次シーズンへ向けた重要な学習となる。
第12戦 Denka Athletics Challenge Cup ――「段階的な回復」が示した競技基盤の維持
この大会は競技史的には重要だ。
- 記録:54秒59
- 順位:3位
- 形式:タイムレース
国体直後、修正と試行錯誤の中で迎えたレース。
ここには、
- 派手な前進はない
- だが崩壊もしていない
という、「踏みとどまる力」が確認できる。
国体での55秒42から約0.8秒の改善は、急性疲労からの生理学的回復プロセスを示している。完全回復には至っていないが(54秒59は依然として自己ベストから1秒以上遅い)、急性的な機能低下からは脱却した段階と解釈される。
このレースは2019年の「現実的な現在地」を示している。シーズン終盤の疲労管理、積極的休養としての競技参加、次シーズンへの橋渡し――これらの戦略的意義が、結果に表れている。
第13戦 日本選手権リレー ――「役割」と「覚悟」
シーズン最終戦。松本は2種目のリレーでアンカーを務めた。
- 4×100mR:45秒77(6位)
- 4×400mR:3分51秒40(3組6着)
ここで語られたコメントは、2019年全体の総括そのものである。
4継では、決勝に進出することができ良かったです。しかし下位入賞だったため、400mをメインではやっていますが、100mを専門とする選手に劣らないくらいの走力をつけていきたいと思いました。また、マイルリレーではとても悔しかったですが、どんな状況でもアンカーとしての役目としてちゃんと着順には入らなければいけなかったと感じました。実力不足だったので、来年は両リレーとも優勝したいと思います。
順位への言及ではなく、自分の役割を果たせなかったことへの悔しさ。個人記録ではなく、チームの中での責任。これは、競技者として一段階成熟した証である。
専門性の自覚(100m的スピード不足の認識)、役割責任の内面化(アンカーとしての責任)、次年度目標の明確化(両リレー優勝)、感謝の表明(応援への感謝)――この四層的省察は、スポーツ心理学における「シーズン総括」の理想型を示している。
総括――2019年は「世界を見る年」だった
2019年度の松本奈菜子を貫く軸は明確である。
- 勝っても満足しない
- 負けても向き合い続ける
- 常に次を見ている
この一年で彼女は、
世界を「見る側」から世界を「走る側」へ視線を切り替えた。
結果がすべて揃った年ではない。しかし、思考と基準が確実に一段階引き上げられた年だった。
記録面での総括
- シーズンベスト:53秒70(日本選手権)
- 優勝:5回
- 表彰台:多数
記録的には53秒台前半という次の壁の手前にあるが、方向性は明確になった。
技術面での総括
- スタート技術の改善
- 前半主導型レース構成の確立
- コーナー技術という次の課題の特定
心理面での総括
- 内的基準の確立(順位よりもタイム、結果よりも内容)
- 省察的実践能力の向上(失敗を学習へ変換する力)
- 選択的不満足の建設的活用(具体的未達点の特定)
次章への導入――冬季練習という「再構築の時間」へ
シーズンを終え、松本が語った言葉は静謐だ。
これから冬季練習が始まります。ちゃんと地に足つけて、目標を持ち続けてここからまた頑張ります。
2019年は終わった。だが物語は続く。
この総括の先には、
- 冬季練習
- 基礎への回帰
- 世界基準への再挑戦
という、次の章が待っている。
未完の2019年が、完成への2020年を準備する。静かな冬の時間の中で、松本奈菜子は次の飛躍を着実に準備していく。

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