- 大会情報
- レース結果
- 松本奈菜子のコメント
- 結果と自己評価の乖離が示すもの
- 技術的課題の核心――「スピード維持」の未完
- 勝利の中にある不満が示す競技段階
- 今後への示唆――「出し切る」ための条件
- 考察①勝ったのに満足できない――アスリートの心の変化
- 考察②:「ふわぁ〜っと」という感覚の正体
- 考察③:スピードを維持する難しさ――400mの壁
- 考察④:「出し切れなかった」が意味すること
- 考察⑤:評価の基準が変わる――「勝つこと」から「良い走りをすること」へ
- 考察⑥:心の中の「理想の走り」
- 考察⑦:スピードを維持するための練習方法
- 考察⑧:レースを想定した練習の重要性
- 考察⑨:実業団・学生対抗という大会の特性
- 考察⑩:実験の場として活用する戦略
- 結語:心に残る違和感が予告する飛躍
- 参考資料:後日掲載します。
大会情報
大会名: 第59回実業団・学生対抗選手権大会
開催日: 2019年7月27日
会 場: Shonan BMWスタジアム平塚(神奈川県平塚市)
レース結果
種 目: 女子400m
記 録: 54秒31
順 位: 1位
松本奈菜子のコメント
あまりちゃんと出しきれず、ふわぁ〜っと終わってしまった400だったので、ペース配分の課題として前半でスピードに乗ったところで走り続けることができたらよかったと思いました。
結果と自己評価の乖離が示すもの
松本の上記のコメントは、1位という結果と本人の評価が一致していないことを明確に示している。勝利してなお満足できないという感覚は、競技者としての基準がすでに「勝つこと」から「理想のパフォーマンス」へ移行している証左である。
技術的課題の核心――「スピード維持」の未完
松本が指摘した課題は、より正確には「前半でスピードに乗った後、それを維持できなかった」点に集約される。トップスピードに達する能力は備わっている一方、その速度を中盤以降も保ち続けるスピード持久力が、本人の理想には達していなかった。
「ふわぁ〜っと終わった」という感覚は、持っている力を十分に発揮しきれなかったという体感そのものである。これは疲労による失速とは質的に異なる。意図的に抑制したわけでもなく、かといって全力を出し切った感覚もない――この曖昧な状態が、松本に違和感を残した。
勝利の中にある不満が示す競技段階
本大会は「勝てたが、満足できなかった」レースであった。この感覚は、競技者が次の成長段階に入ったことを示すサインでもある。
勝敗ではなく、レース構成、出力の質、再現性を基準に自己評価を行っている点に、松本の競技観の成熟が見て取れる。
今後への示唆――「出し切る」ための条件
今後の課題は明確である。
- 前半200mのスピードを中盤まで保つ設計
- スプリットタイムによる客観的ペース管理
- レース想定トレーニングによる感覚と数値の一致
これらが噛み合ったとき、「出し切れた400m」は現実のものとなる。
考察①勝ったのに満足できない――アスリートの心の変化
54秒31での優勝は、一見すると素晴らしい結果である。しかし、松本自身は「ふわぁ〜っと終わってしまった」と語り、手放しでは喜べない様子であった。この「勝ったのに満足できない」という感覚は、アスリートとして大きく成長している証である。
多くの選手は、キャリアの初期段階では「勝つこと」そのものを目標にする。順位や勝敗という、誰の目にも明らかな結果を追い求める。しかし、トップレベルに近づくにつれて、評価の基準が変わってくる。「勝ったかどうか」よりも、「自分の持っている力をどれだけ出せたか」「理想的な走りができたか」という、より内面的な基準で自分を評価するようになるのである。
「あまりちゃんと出しきれず」という松本の言葉は、まさにこの変化を表している。優勝という結果よりも、「自分の潜在能力をどれだけ発揮できたか」を重視しているのである。この視点の転換は、浜松市立高校時代から培ってきた「記録を大切にする」姿勢や、東邦銀行での専門的な指導環境が育んできたものであろう。
考察②:「ふわぁ〜っと」という感覚の正体
「ふわぁ〜っと終わった」という松本選手の表現は、一見すると曖昧に聞こえるかもしれない。しかし、この身体感覚の描写には、実は重要な情報が含まれている。
走っている最中、選手は自分の身体の状態を敏感に感じ取っている。「ふわぁ〜っと」という感覚は、おそらく次のような状態を表していると考えられる。
まず、筋肉に力を入れているつもりなのに、思ったほど地面を強く蹴れていない状態である。これは意図的にスピードを落としているのではなく、無意識のうちに身体が出力を抑えてしまっている状態を指す。レースの中盤から後半にかけて、疲労によって神経から筋肉への指令が弱まり、本来発揮できるはずの力が出せなくなるのである。
さらに、自分の身体の動きが曖昧になり、「今どれくらいのスピードで走っているか」「どれくらい力を出しているか」という感覚が不明瞭になることもある。これは、身体の位置や動きを感じ取るセンサー機能の精度が下がることで起こる。
重要なのは、松本がこの微妙な感覚の変化を明確に「問題」として認識できている点である。松本の感受性の高さが、さらなる成長を可能にしているのである。
考察③:スピードを維持する難しさ――400mの壁
松本が語った「前半でスピードに乗った後、それを維持できなかった」という課題は、400m走の本質的な難しさを表している。
400m走では、「スピード持久力」と呼ばれる能力が極めて重要である。これは単に「速く走り続ける力」というだけでなく、いくつかの要素が複雑に絡み合った能力である。
まず、前半の高速走行では、筋肉が蓄えているエネルギーを急速に消費する。このエネルギーが早い段階で底をつくと、中盤以降でスピードが落ちてしまう。
また、激しい運動によって筋肉には乳酸という物質が蓄積し、筋肉の環境が酸性に傾く。この酸性環境でも筋肉の力を維持できる能力が必要である。
さらに、脳から筋肉への指令そのものが疲労によって弱まる「中枢性疲労」と、筋肉自体の収縮力が低下する「末梢性疲労」の両方に耐える力も求められる。
そして技術的な面では、疲れてきても走りのフォームが崩れない安定性が必要である。ストライドの長さやピッチ、接地時間、体幹の安定性などを最後まで保つことが理想である。
考察④:「出し切れなかった」が意味すること
松本の「出し切れなかった」という感覚は、身体的にはまだ余力が残っていた可能性を示している。理想的な400m走では、ゴール時点で身体のエネルギーがほぼ使い切られ、高い覚醒状態に達している状態が望ましいとされる。
では、なぜ余力を残してしまったのだろうか。考えられる理由はいくつかある。
一つは、身体を守ろうとする無意識の働きである。人間の脳には、身体が限界を超えて傷つかないように、本当の限界より手前で力の出力を抑える仕組みが備わっている。これは「心理的リミッター」と呼ばれるものである。
また、ペース配分を慎重にしすぎた可能性もある。後半に失速することへの不安から、前半から中盤を無意識のうちに抑えてしまうことがある。
さらに、疲れてきたときにフォームが崩れることへの不安も影響しているかもしれない。日本選手権でコーナーでの上体の起き上がりが課題として現れていたため、同じ失敗を避けようとして、無意識に力を抑えてしまった可能性がある。
考察⑤:評価の基準が変わる――「勝つこと」から「良い走りをすること」へ
多くのアスリートは、競技を始めた頃は「勝つこと」「順位を上げること」を第一の目標にする。これは自然なことである。しかし、競技レベルが上がるにつれて、徐々に評価の基準が変化していく。
スポーツ心理学では、この変化を「自我志向から課題志向への移行」と呼ぶ。「自我志向」とは、他者との比較や順位を重視する姿勢である。一方「課題志向」とは、自分自身の技術やパフォーマンスの質を重視する姿勢を指す。
研究によれば、課題志向を持つアスリートの方が、長期的にパフォーマンスが向上しやすく、心理的にも健康で、競技を長く続ける傾向があることが分かっている。
松本の「勝てたが満足できない」という感覚は、課題志向への明確な移行を示している。この変化は通常、数年かけて徐々に進むものであるが、松本の場合、浜松市立高校時代から「記録を大切にする」文化に触れてきたことで、早い段階からこの志向が育まれてきたと考えられる。
考察⑥:心の中の「理想の走り」
「理想のパフォーマンス」という概念は、心の中にある「こう走りたい」というイメージである。現実の自分と理想の自分とのギャップが、向上心の源になる。
松本の場合、「前半のスピードを中盤まで保つ」という理想の走りが明確に心の中にある。54秒31という記録は客観的には高い水準であるが、この理想像とは少し離れているのである。このように「ここは納得できない」と感じる部分を自分で見つけられることが、継続的な改善を促していく。
重要なのは、この不満足が前向きであるという点である。松本選手は自分を否定しているわけではなく、具体的な改善点(スピード維持、ペース管理)をはっきりと認識している。この「成長を目指す評価」の姿勢が、心の健康を保ちながら競技力を高めていく鍵となる。
考察⑦:スピードを維持するための練習方法
スプリットタイム(区間タイム)を使った客観的なペース管理は、トレーニングを科学的に進める上で非常に重要である。400m走では、50m毎または100m毎のタイムを測ることで、ペース配分を客観的に把握できる。
53秒台を目指す場合の理想的なスプリットパターンは、おおよそ次のようになる。
- 0-100m: 12.0-12.5秒
- 100-200m: 12.5-13.0秒(累積24.5-25.5秒)
- 200-300m: 13.5-14.0秒(累積38.0-39.5秒)
- 300-400m: 14.5-15.0秒(累積52.5-54.5秒)
松本の「ふわぁ〜っと終わった」という感覚は、おそらく200-300mの区間での失速に原因があると考えられる。この区間は、身体の中で乳酸が最も蓄積し、生理学的に最も厳しい場面である。
考察⑧:レースを想定した練習の重要性
レースを想定した練習によって、感覚と数値を一致させることは、運動学習の基本原則である「特異性の原理」に基づいている。これは、「練習の効果は実際の競技に似た条件で行うほど高まる」という考え方である。
具体的には、以下のような練習が効果的であると考えられる。。
ペーストライアル: 目標とするペースで300-350mを走り、中盤での失速傾向を体で覚える練習である。
ネガティブスプリット練習: 前半を抑えて後半に加速するという、通常とは逆のパターンを経験することで、ペース感覚を調整する。
疲労時の技術維持練習: 高強度の走りの後、技術的な崩れ(上体の起き上がりなど)をチェックし、修正する練習である。
これらを通じて、「今これくらいの力で走っている」という主観的な感覚と、実際のスピード(スプリットタイム)との対応関係を正確にしていく。
考察⑨:実業団・学生対抗という大会の特性
実業団・学生対抗選手権は、日本選手権に比べると注目度やプレッシャーが比較的低い大会である。このような「低プレッシャー環境」には、良い面と難しい面の両方がある。
良い面としては、新しい技術や戦術を試しやすいことが挙げられる。失敗を恐れずに、攻撃的なペース配分を試すことができる。
一方で、大会によっては緊張感の度合いが異なるため、自分の持つ力を最大限に引き出すための心理状態を作ることが難しい場合もある。
松本選手の「出し切れなかった」という感覚には、こうした大会特有の雰囲気も影響していた可能性が考えられる。
考察⑩:実験の場として活用する戦略
前述のとおり、こうした大会は新しい技術や戦術を試しやすい。つまり「実験の場」として戦略的に活用できる。松本が次のレースで試したい要素――例えば、前半をさらに速く入ること、250m地点で意識的にギアを上げること等――を、比較的プレッシャーの低い環境で検証できるのである。
トレーニングを段階的に進める原則では、新しい刺激を少しずつ取り入れることが推奨されている。低プレッシャーの大会で試行し、中程度のプレッシャーの大会で検証し、高プレッシャーの大会で実践する――この段階的な適用が、リスクを最小限に抑えながら技能を向上させる方法のひとつである。
結語:心に残る違和感が予告する飛躍
実業団・学生対抗選手権の54秒31での優勝は、記録としては突出したものではないが、心理的には極めて重要な転換点であった。勝利への満足ではなく、パフォーマンスの質への不満――この心に残る違和感こそが、次の飛躍を予告しているのである。
スポーツにおける成長は、満足の積み重ねではなく、不満足を前向きに活用することで実現される。現状への適度な不満が、改善への意欲を保ち、具体的な課題の特定を促し、練習への集中力を高める。松本の「出し切れなかった」という感覚は、まさにこうした建設的な不満なのである。
優勝という外側からの評価を相対化し、内面的な基準で自分を測る――この心の成熟が、社会人初年度における松本の最大の成長のひとつである。記録の数字的な向上以上に、評価基準そのものの質的な転換こそが、長期的な競技的卓越への道を開く。
実業団・学生対抗選手権は、この転換が明確になったことを示す、静かながら決定的な一戦として記録されるべきであろう。そしてこの経験は、松本選手が目指す「51秒台前半から50秒台」という世界水準、日本記録更新への道において、内面的な基準で自己を評価するという重要な心理的資質を確立する、貴重な学びとなったのである。


コメント