大会概要
大会名: 第67回全日本実業団陸上競技選手権大会
開催日: 2019年9月20日 – 22日
会 場: ヤンマースタジアム長居(大阪市)
レース結果
女子400m
- 記録: 54秒35
- 順位: 1位
女子4×100mリレー
- 記録: 45秒82
- 順位: 1位
本大会で松本奈菜子は二冠を達成
松本奈菜子のコメント
タイムを53秒前半出すために来たので、この結果になってしまったことが悔しかった。なぜ走れなかったのかちゃんと考えたいです。
考察①客観的成功と主観的課題の並存――パフォーマンス・ギャップの競技史的意義
全日本実業団選手権における松本のパフォーマンスは、スポーツ心理学でいう「パフォーマンス・ギャップ」の典型例を示している。400mとリレーの二冠という客観的成功を収めながらも、本人は「53秒前半」という目標タイムに届かなかったことに焦点を当てている。この評価の二重構造こそが、松本の競技者としての成熟度を物語っている。
松本の「タイムを53秒前半出すために来た」というコメントから伺える明確な目的意識と、「なぜ走れなかったのかちゃんと考えたい」という省察的態度は、外的基準(順位)よりも内的基準(自己の潜在能力発揮度)を重視する姿勢の表れである。これはDeci & Ryanの自己決定理論における内発的動機づけの最高形態であり、持続的な競技力向上を可能にする認知的資質といえる。
考察②「53秒前半」という目標設定の戦略的意義
Locke & Lathamの目標設定理論によれば、「具体的で困難な目標」が最高のパフォーマンスを引き出す。松本の「53秒前半」という設定は、具体性(53秒00-53秒40という明確な範囲)と困難性(現状54秒台から約1秒短縮)という理論的要件を満たしている。
この種の具体的数値目標は、抽象的目標(「速くなる」「自己ベストを出す」)と比較して、準備過程の明確化、進捗の客観的評価、レース中のペース判断を可能にする。現状から1秒の短縮は生理学的に大きな飛躍を要求するが、前半200mの0.3-0.4秒短縮、後半200mでの失速抑制0.3-0.4秒、その他微小要因の最適化0.2-0.3秒の統合により、理論的には達成可能な水準である。
考察③シーズン記録の推移から見る生理学的要因
2019年シーズンの松本の400m記録を時系列で整理すると、明確なパターンが浮かび上がる。
- 静岡国際(5月3日): 54秒45
- 木南記念(5月6日): 54秒14
- 日本選手権(6月): 53秒70
- 実業団・学生対抗(7月): 54秒31
- 全日本実業団(9月22日): 54秒35
日本選手権の53秒70をピークとして、その後は再び54秒台に戻っている。この推移はトレーニング科学における「ピーキング」と「疲労累積」の典型的パターンを示していると考えられる。9月下旬という時期は4月から続く長期シーズンの終盤であり、筋グリコーゲン貯蔵量の慢性的低下、神経筋系の疲労蓄積、免疫機能の低下といった生理学的変化が生じやすい。
さらに、今大会において松本は400m個人種目に加えて4×100mリレーにも出場している。短距離リレーは無酸素性パワーへの高負荷を伴い、400mに必要なエネルギー系を部分的に枯渇させる。複数日にわたる大会での日ごとの回復が不完全である場合、最終日のパフォーマンスが低下するという「連戦疲労」の影響も考慮すべきであろう。
考察④技術的・戦術的課題の継続性
日本選手権で顕在化した「200m過ぎのコーナーで上体が起き上がり減速」という技術的課題は、全日本実業団でも未解決だった可能性が高い。バイオメカニクス的には、体幹深層筋(多裂筋、腹横筋)の疲労時持続性不足が上体起き上がりを招く。
この課題の解決には、体幹動的安定性トレーニング、疲労時技術維持練習、コーナー特異的反復練習など、数ヶ月の継続的介入を要する。シーズン終盤の全日本実業団では、富士北麓(9月1日)からわずか3週間しかなく、十分なトレーニング介入期間を確保できなかったと考えられる。
また、「前半スピードを中盤まで保つ」という課題も静岡国際以来継続している。これは無酸素性代謝容量と乳酸耐性能力の限界を示すものであり、高強度インターバルトレーニングの継続的実施により向上する。しかし、シーズン中は試合頻度が高く、十分な高強度トレーニング量を確保することは困難である。
考察⑤「なぜ走れなかったのか」という問いの学習価値
Weinerの帰属理論では、失敗の原因を内的vs外的、安定vs不安定、制御可能vs制御不能という三次元で分類する。松本の「なぜ走れなかったのかちゃんと考えたい」という言葉は、典型的な「内的・不安定・制御可能」帰属を示している。
この帰属様式は心理学的に最も健全である。外的帰属(「風が悪かった」「運が悪かった」)は学習機会を逸失させ、内的・安定・制御不能帰属(「才能がない」)は学習性無力感を生む。松本の帰属様式は具体的改善策の探索を促進し、自己効力感を維持する。
Schönの「省察的実践」理論では、熟達者は「行為についての省察」を通じて経験を学習へ変換するとされる。松本の冷静な分析姿勢は、浜松市立高校以来の「理解重視」文化と東邦銀行での専門的環境が育成した認知的資質の表れであると考えられる。失敗を感情的に処理する(落胆、自己批判)傾向が強いアスリートも存在するが、松本は認知的分析を行う。この姿勢こそが継続的改善を可能にする。
考察⑥二冠達成の複眼的評価
松本が4×100mリレーで優勝した事実は、短距離スピード能力の高さを証明している。100mリレーへの出場は、400m選手にとって最大速度の維持、神経系の高頻度発火による400m前半のスピード基盤強化、心理的多様性の確保という効果を持つ。
ただし、同一大会での複数種目出場は生理学的回復を不完全にするリスクもある。この「多種目戦略」は、シーズン全体での位置づけ(調整試合vs主要大会)に応じて最適化すべきである。全日本実業団がシーズン終盤の総括的大会であることを考えれば、二冠達成は実業団トップレベルでの総合的競争力の証明といえる。
考察⑦「選択的不満足」の建設的機能
松本の「悔しかった」という感情は建設的である。彼女は自己を全否定せず、具体的未達点(53秒前半という数値目標)を特定している。この「選択的不満足」が、心理的健康を保ちながら競技力を向上させる。
高校時の日本選手権優勝後の「54秒00では満足していない」、実業団・学生対抗優勝後の「出し切れなかった」、そして今回の「53秒前半に届かず悔しい」という一貫した姿勢は、内的基準が外的基準を常に上回ることを示している。この評価様式は、外的報酬への依存を避け、持続的な自己改善動機を維持する。そして、松本の認知的精緻さ――問題を局所化し、改善可能性を保持すること――は長期的競技継続を可能にする。
考察⑧次への飛躍の礎石として
全日本実業団選手権は、松本奈菜子の2019年シーズンにおける「完成」ではなく「課題明確化」の場となった。二冠という客観的成功は実業団トップレベルでの競争力を証明し、同時に53秒前半という次の目標への「1秒の壁」を明確に可視化した。
この1秒は、コーナー技術の洗練(0.3-0.4秒)、スピード持久力の向上(0.3-0.4秒)、その他微小要因の最適化(0.2-0.3秒)の統合により克服可能である。いずれもオフシーズンの体系的トレーニングにより改善可能な要素である。
松本の「なぜ走れなかったのかちゃんと考えたい」という言葉は、次シーズンへ向けた学習サイクルの開始を宣言している。この省察的態度こそが、一時的停滞を持続的向上へ変換する。全日本実業団での経験は、2020年シーズンでの53秒の壁突破、さらには52秒台到達への確かな礎石となるだろう。
結果として残るのは二冠。しかし競技史として記録すべき本質は、「なぜ53秒前半に届かなかったのか」と自問したその姿勢にある。勝利への安住を拒否し、自己基準でパフォーマンスを測る――この明確な競技観こそが、松本奈菜子というアスリートの核心を形成している。


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