【2019年度・第2戦】静岡国際― 攻め切れなかったバックストレートの教訓 ―

2019年度
2019年度東邦銀行1年目
この記事は約10分で読めます。

大会情報

大会名: 第35回静岡国際陸上競技大会
開催日: 2019年5月3日
会 場: 小笠山総合運動公園エコパスタジアム

レース結果

女子400m

種目: 女子400m
記録: 54秒45
順位: 4位

上位結果

1位: 髙島咲季(相洋高校) 53秒31
2位: 青山聖佳(大阪成蹊AC) 53秒86
3位: 広沢真愛(日本体育大) 54秒25

松本奈菜子のコメント〔東邦銀行陸上競技部 公式サイトより〕

スタートの出だしは良かったですが、バックストレートで回っている足を自分でセーブしながら走ってしまいました。その為、250mからの切り替えを上手くできずキレのない走りになってしまいました。木南ではうまくバックストレートで乗れるようにしたいです。

社会人2戦目としての意味

本大会は松本奈菜子にとって、東邦銀行入社後2戦目の公式レースである。同時に、高校3年時に400mで優勝を飾った「記憶の残る舞台」でもあった。

社会人デビュー戦の出雲陸上から間を置かず迎えたこの一戦は、「修正したスタートがレース全体にどう波及するか」を検証する位置づけにあったと言える。

レース展開の分析①:スタートは機能していた

松本はレース後、次のように振り返っている。

「スタートの出だしは良かったですが――」

この言葉が示す通り、序盤の加速局面は前戦(出雲)で課題とされたスタートの出遅れ・上体の起き上がりは一定程度修正された。静止状態から巡航速度へ移行する初期フェーズにおいて、リズム・姿勢・加速の流れは破綻しておらず、レースを成立させるための「土台」は確かに築かれていた。

レース展開の分析②:バックストレートでの自己制御

一方で、今回のレースの核心は中盤にあったと考えられる。400mにおいてバックストレートは、最大スピードに近い巡航速度を保ったまま進むことが望ましい局面である。ここで松本は、失速への警戒、体感的な余裕のなさ、次の局面への不安といった心理的要因から、本来維持すべき巡航スピードを意図的に落とす選択をした可能性がある。
この「自らのブレーキ」は、エネルギー温存という意図があったかもしれないが、結果的にレース全体のリズムを崩す判断となった可能性が考えられる。

レース展開の分析③:250m地点での切り替え不全

バックストレートで失われた巡航速度は、250m以降の局面転換に直接的な影響を及ぼした。

「250mからの切り替えを上手くできず、キレのない走りになってしまいました」

400mの勝負所は「巡航からスパートへ自然にギアを上げられるか」にある。

しかし今回は、巡航速度が低下していたこと、ストライドとピッチの再加速が噛み合わなかったことにより、スパート動作への移行が成立せず、「キレ」を欠いた終盤となった。

これは体力の問題ではなく、中盤で一度レースの流れが途切れたことによる構造的失速である。

浮かび上がった本質的課題

本レースで明確になった課題は、次の2点に集約されるだろう。

バックストレートでの巡航速度維持

400mにおいて最も重要な「中間疾走」を、心理的理由で緩めてしまったことが、全体の失速を招いた。

巡航からスパートへの局面転換

250m地点を起点としたギアチェンジが成立せず、レース後半を支配する力を発揮できなかった。

次戦(木南)へ向けた示唆

松本自身は、すでに次戦を見据えている。

「木南ではうまくバックストレートで乗れるようにしたいです」

この言葉は、課題の所在と改善ポイントを正確に把握している証左である。

スタートが機能し始めた今、次に求められるのは「巡航速度を保ち切る判断力」と「250m地点での迷いなき切り替え」である。

総括

静岡国際400m・54秒45という結果は、単なる4位という順位以上に、400mレースの構造理解が一段深まった一戦であった。

好スタートという前進と、バックストレートでの消極性という課題。その両方が明確に可視化されたことで、松本奈菜子が次のステージへ進むための修正点は、これ以上ないほど具体化されたと言えるだろう。

考察① 400m中間疾走の生理学的・戦術的重要性

バックストレートの代謝的特性

400mにおけるバックストレート(100-200m区間)は、生理学的に極めて特異な局面である。この区間では、(1)爆発的エネルギーが既に枯渇し、(2)無酸素系が急速に活性化し、(3)有酸素系の寄与が漸増する――という三つのエネルギー供給システムが複雑に交錯する。

動作力学の観点から見ると、世界トップ400m選手の速度プロファイルは、60-80m地点で最高速度に到達し、80-200mで「準最高速度維持局面」を形成する傾向がある。この局面での速度維持が、最終記録と最も高い相関を示すと考えられている。逆に、この区間での速度低下は、後半(300m以降)での加速余地を失わせる可能性がある。

「巡航速度」の運動制御論的意味

松本が言及している「バックストレートで乗る」という表現は、運動制御理論における「定常状態」を意味していると考えられる。これは、歩幅・歩数、接地時間、関節の動きといった運動学的な要素が、一定の範囲内で安定的に維持される状態である。

この定常状態の維持には、神経筋系の自動化されたプログラムが機能する。小脳と大脳基底核による無意識的な制御が主体となり、意識的な思考の負担が最小化される。この自動化こそが、エネルギー効率を最大化し、後半への余力を保証する。言い換えれば、「意識しなくても身体が勝手に最適な動きをしてくれる」状態を維持することが、400mでは極めて重要である。

考察② 「予期的不安」による意図的減速

予期的不安と回避行動

「バックストレートで回っている足を自分でセーブしながら走ってしまいました」という松本の言葉は、心理学における「予期的不安」の典型的な表れだと考えられる。予期的不安とは、将来の失敗・苦痛を予測することで生じる不安であり、その回避行動として現在の行動が抑制される現象である。

松本の場合、「失速への警戒」「体感的な余裕のなさ」「次の局面への不安」という三つの予期的認知が、バックストレートでの意図的減速を引き起こした可能性がある。これは、ストレス評価理論における「脅威評価」――要求が資源を超えると認識される状態――の表れとして理解できる。

考察③ 中間疾走での減速が引き起こす連鎖的崩壊

運動制御の定常状態破綻

バックストレートでの意図的減速は、確立されつつあった運動制御の定常状態を破壊する可能性がある。運動パターンは安定した状態へ収束する傾向があるとされ、一度確立された状態からの逸脱は、システム全体の不安定化を招く。

生理学的には、減速により筋活動パターンが変化し、(1)遅筋線維の動員率増加、(2)速筋線維の動員率低下――が生じる。この筋線維動員パターンの変化は、その後の再加速時に速筋線維の即座再動員を困難にする可能性がある。神経筋系には「履歴依存性」があり、直前の活動パターンが次の活動パターンに影響を及ぼすのである。

250m地点での切り替え不全の構造的必然性

「250mからの切り替えを上手くできず」という現象は、バックストレートでの減速の必然的な結果である可能性が高い。運動学習理論における「文脈依存性」では、特定の動作パターンは、それを生み出した感覚運動的な状況と強く結びついているとされる。

バックストレートで速度が低下した状態では、歩幅・歩数、接地角度、体幹の前傾角度といった運動要素が、「低速モード」に最適化される。250m地点でこの低速モードから高速モードへ切り替えるには、運動制御プログラムの大幅な再構築が必要となる。しかし、すでに疲労が蓄積し、認知的なリソースが減少しつつある状況では、この再構築は極めて困難である。

動作力学的に見ると、歩数を急増させるには、下肢関節(足関節・膝関節・股関節)の角速度を急激に上昇させる必要がある。しかし、筋腱複合体による弾性エネルギーの利用は、一定のリズムで最適化されており、急激なリズム変化はこの最適化を崩してしまう。結果として、エネルギー効率が低下し、「キレのない走り」として体感される。

考察④ 心理的要因と生理学的要因の相互作用

主観的疲労感と客観的疲労の乖離

松本がバックストレートで感じた疲労感は、主観的な疲労感と関連していると考えられる。この主観的な疲労感は、必ずしも客観的な生理学的疲労(乳酸濃度、筋肉のエネルギー枯渇)と一致しない。

中枢性疲労理論では、脳が運動出力を制限することで、身体の破綻を事前に防ぐ保護機構の存在が指摘されている。松本がバックストレートで感じていた疲労感は、客観的な生理学的限界ではなく、脳による保守的なコントロールであった可能性が高い。

この種の脳による制限は、経験を重ねることで調整されていく。世界トップ選手は、本当の生理学的限界と主観的な疲労感の関係を正確に学習しており、「苦しくても実はまだ余裕がある」ことを身体で知っている。松本の場合、実業団での経験を重ねることで、この身体感覚の精度が次第に高まっていくことが期待される。

不安と筋緊張の悪循環

心理学における「不安-緊張サイクル」では、心理的不安が筋緊張を高め、筋緊張の増大が動作の滑らかさを損ない、結果としてパフォーマンスが低下し、さらに不安が増幅される――という悪循環が記述される。

バックストレートでの松本は、まさにこのサイクルに陥った可能性がある。「失速するかもしれない」という不安→拮抗筋の同時収縮増大→動作効率の低下→「やはり余裕がない」という確証→さらなる抑制――この連鎖が、意図的減速という行動選択を正当化したと考えられる。

考察⑤ スタート改善と中間疾走課題の連関性

部分最適化の連鎖的影響

出雲陸上で顕在化したスタート課題が静岡国際で改善されたことは、技能習得における「段階的焦点化」の成功例である。しかし同時に、新たな課題(バックストレートでの減速)が顕在化した。

この現象は、複雑技能習得における「部分最適化の連鎖」として理解される。全体システム(400m走)は複数の下位システム(スタート、加速、巡航、スパート、維持)から構成される。一つの下位システムを改善すると、他の下位システムとの相互作用が変化し、新たな不均衡が生じる。

スタートが改善され、前半の速度が向上したことで、バックストレートでの生理学的・心理学的負荷が相対的に増大した。松本が感じた「余裕のなさ」は、実際には前戦より速いペースで走行していたことの反映だと考えられる。しかし、この速度増に対する生理学的・心理学的適応が追いついていないため、過度な不安として体験された可能性がある。

運動学習理論における「階層的統合」では、個別の技能を改善した後、それらを全体としてうまく組み合わせる段階が必要とされる。松本の現在地は、まさにこの再統合段階にあると考えられる。

スタート技術という一つの要素が改善された今、それを含む全体(400m走全体のペース配分・エネルギー管理・心理的戦略)を作り直すことが求められる。「木南ではうまくバックストレートで乗れるようにしたい」という松本の言葉は、この全体の組み直しという課題を明確に認識していることを示している。

考察⑥ 「巡航速度を保ち切る判断力」の心理学的構造

リスク許容と最適パフォーマンス

「巡航速度を保ち切る判断力」とは、心理学的には「リスクをどこまで受け入れるか」の問題である。最高のパフォーマンスは、生理学的限界のギリギリで達成されるが、この領域は失敗のリスクも高い。保守的な戦略(早めの減速)は失敗のリスクを減らすが、同時に最高のパフォーマンスを出す可能性も手放すことになる。

行動経済学の理論では、人間は得られるものよりも失うものを重視し、リスクを避ける行動をとる傾向があるとされる。松本の意図的な減速は、「失速して崩れる」という損失を避けることを、「記録を伸ばす」という利得よりも優先した判断として理解できる可能性がある。

自己効力感と攻撃的ペーシング

このようなリスクを受け入れる力を高めるには、自己効力感理論が示す通り、(1)達成経験の蓄積、(2)他選手の成功観察、(3)コーチからの適切なフィードバック、(4)生理的状態の正確な理解――が有効とされる。

松本の場合、木南記念・日本選手権と、攻撃的なペーシングで成功体験を積み重ねていくことで、自己効力感が段階的に高まっていくことが期待される。「バックストレートで維持しても後半戦える」という確信が、身体的・認知的に深まることで、リスク許容度が最適な水準へ調整されていくと考えられる。

結語――構造理解の深化が導く次段階

静岡国際の54秒45は、記録としては停滞だが、学習プロセスとしては極めて生産的であった。スタート改善という前進と、バックストレートでの心理的抑制という新課題の顕在化――この二つの要素が、400m走という複雑技能の構造理解を一段深化させた。

特筆すべきは、松本が課題を「体力不足」という生理学的な要因ではなく、「セーブしてしまった」という心理的・戦術的な要因として捉えている点である。この認識の正確さが、具体的改善策(「バックストレートで乗る」)を導出し、次戦での修正を可能にする。

技能習得は線形的進歩ではなく、部分最適化と全体再統合の反復的サイクルである。一つの課題を解決すると、新たな課題が顕在化する――この過程自体が、より高次の技能水準への到達を意味する。

静岡国際は、53秒台突破という当面の目標へ向けた、構造理解深化の重要な一里塚となった。そして何より、この経験は松本が後に目指すことになる世界水準への道において、心理的・技術的成熟を促す貴重な経験になったことだろう。

参考資料:後日掲載します。

 

※本記事は、公式記録および関係団体の公式発表、陸上競技専門メディアの公開記事、ならびに信頼性の高い報道・Web記事を参考資料として作成しています。記事中の競技分析および考察は、運動生理学・スポーツ科学等の知見に基づく筆者の見解であり、杉井將彦監督(当時)、松本奈菜子選手、関係者の方々の見解や立場を示すものではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました