- 大会情報
- レース結果
- 松本奈菜子のコメント
- レース展開――主導権を握った前半、交錯したラスト100m
- レース後の情景――勝者と敗者を超えた瞬間
- 松本奈菜子の自己評価――冷静に言語化された技術課題
- 強みの整理――スタートと前半局面での優位性
- 課題の核心――200m以降のコーナーで起きた減速
- 今後への示唆――体幹主導とコーナー技術の定着
- 総括――社会人初年度に得た「武器」と「設計図」
- 考察① 前半主導型戦略の生理学的合理性
- 考察② 200m以降コーナーでの技術的破綻――生体力学的分析
- 考察③ 0.02秒差の心理学的意味――勝敗と成長の弁証法
- 考察④ スタート技術の安定化――出雲からの継続的改善
- 考察⑤実業団選手初年度の位置づけ――再構築期の通過点
- 考察⑥ コーナー技術改善の展望――動作力学的介入
- 結語――武器と設計図が揃った再成長の起点
- 参考資料:後日掲載します。
大会情報
大会名: 第103回日本陸上競技選手権大会
開催日: 2019年6月27日〜30日
会 場: 博多の森陸上競技場(福岡市)
本大会は松本奈菜子にとって、実業団の選手として初めて迎える日本選手権であった。2014年、日本選手権の女子400mを高校3年生で制し、一躍脚光を浴びた松本は、その後、筑波大学時代に試行錯誤と停滞を経験する。その流れを経て臨んだ本大会は、競技者としての再構築期の現在地を測る一戦という意味合いを強く持っていた。
レース結果
種目: 女子400m
記録: 53秒70
順位: 3位
上位結果:
1位: 青山聖佳(大阪成蹊AC) 53秒68
2位: 高島咲季(相洋高校) 53秒68(着差判定)
3位: 松本奈菜子(東邦銀行) 53秒70
松本奈菜子のコメント
予選・決勝共にブロックのハマりが良かったため、前半から攻めた走りをすることができました。しかし、200m過ぎでのコーナーの走りで上体が起き上がっ ている為、減速してしまっています。コーナーの抜け方もそうですが、走りの動きも意識して体幹を使った走りを定着させていきたいです。
レース展開――主導権を握った前半、交錯したラスト100m
松本(5レーン)はスタートから積極的に前へ出て、前半からレースの主導権を握る展開を作り出した。序盤から自らのペースでレースをコントロールし、残り100m地点まで先頭を維持する。この展開は、松本が描いていた理想的なレースプランに近い形であり、終盤への良い流れを作っていた。
しかし、ラスト100mで状況が変わる。外側6レーンの高島咲季(相洋高)、内側4レーンの青山聖佳(大阪成蹊AC)が、後半に力を残していた走りで鋭く追い上げてきた。ホームストレートでは三者がほぼ横一線となり、ゴール前は誰が勝ってもおかしくない展開となった。松本は最後まで力を振り絞ったものの、わずか0.02秒差で表彰台の頂点を逃す結果となった。
レース後の情景――勝者と敗者を超えた瞬間
電光掲示板に最初に表示されたのは青山の名前だった。
高校時代から松本の良きライバルとして切磋琢磨してきた青山聖佳。しかし、大学3年から2年ほどスランプに陥り、競技を辞める寸前にまで追い込まれていた。その苦しみの中で、たくさんの人々に支えられながら必死に這い上がってきた道のり。そして今、3年ぶりに日本一の座を取り戻した瞬間だった。
優勝を知った青山は両手を突き上げた後、そのままトラックに倒れ込み、涙を流した。それは喜びだけではない、これまでの苦しみ、支えてくれた人々への感謝、そして自分自身の殻を破れたという解放感――すべてが混ざり合った涙だった。
松本と武石このみは、すぐに青山のもとへ駆け寄り、勝者を称えた。わずか0.02秒差で敗れた松本だったが、そこに悔しさを超えた敬意があった。ライバルとして共に高め合ってきた青山の復活劇を、誰よりも近くで見てきたからこその祝福だった。
この光景は、順位以上に、このレースが選手それぞれの競技人生にとってどれほど重みのある一戦であったかを雄弁に物語っている。
松本奈菜子の自己評価――冷静に言語化された技術課題
松本の上記のコメントは、感情ではなく構造でレースを捉える視点が、すでにこの時点で備わっていたことを示している。
注目すべきは、その分析の精緻さである。「200m過ぎでのコーナーの走りで上体が起き上がっている為、減速してしまっています」という指摘は、時間的・空間的に極めて具体的だ。「後半で失速した」という一般的にありがちな感想ではなく、松本は失速の原因を「200m過ぎのコーナー」という特定の局面に、そして「上体の起き上がり」という具体的な技術要素に特定している。
さらに重要なのは、課題をスタミナや体力といった生理学的要因ではなく、明確に「コーナー局面での技術的破綻」であると自己分析している点だ。「コーナーの抜け方」「体幹を使った走り」という言葉は、単なる感覚的表現ではなく、動作力学的な理解に基づいた技術用語である。
このレベルの自己分析能力は、浜松市立高校での「理解重視」指導、筑波大学での科学的トレーニング環境、そして東邦銀行での専門的指導が積み重なって育成されたメタ認知能力の表れであると考えられる。問題を正確に言語化できる選手は、その問題を解決できる選手でもある。
強みの整理――スタートと前半局面での優位性
本レースで明確になった松本の強みは、以下の2点に集約される。
スタートの安定性
ブロックからの反応と初速の立ち上がりが安定しており、序盤で理想的なポジションを確保できている。
前半を主導できる積極性
400mという種目において、前半で主導権を握れることは戦術的に大きな武器である。この特性があるからこそ、勝負圏内でレースを展開できている。
課題の核心――200m以降のコーナーで起きた減速
一方で、200m以降のコーナーにおいて「上体が起き上がる」という現象が生じたことで、遠心力に抗しきれず、推進力が外へ逃げる形となり、スピードロスが発生した。
これは持久力の問題ではなく、体幹の安定性とコーナーリング技術の統合不足という、極めて具体的な技術課題だと考えられる。
今後への示唆――体幹主導とコーナー技術の定着
松本が言及している通り、今後の改善の鍵は以下にある。
- 体幹を起点とした走りの定着
- 高速域でも姿勢を崩さないコーナーリング技術
これらが統合されれば、前半で築いたスピードを後半まで維持できるようになり、53秒台前半、さらには自己ベスト更新へと直結する可能性は高い。
総括――社会人初年度に得た「武器」と「設計図」
この日本選手権は、前半を支配できる武器と、世界基準へ進むための明確な課題、その両方を浮き彫りにした一戦であった。
実業団選手としての第一歩で得たこの分析と経験は、後年の技術改善と記録向上へ確実につながっていく。
本レースは、松本奈菜子の再成長プロセスにおける重要な起点として位置づけられる。
考察① 前半主導型戦略の生理学的合理性
エネルギー供給システムの最適動員
松本が「前半から攻めた走り」を選択した戦略は、400m走のエネルギー供給特性から見て合理的である。400mでは、最初の150mでATP-PCr系が主要エネルギー源となり、150-300mで解糖系がピークに達し、300m以降は有酸素系の相対的寄与が増大する。
前半で主導権を握る戦略の生理学的利点は、(1)ATP-PCr系の効率的活用により初期加速を最大化、(2)解糖系への移行を滑らかにし、乳酸蓄積の急激な立ち上がりを回避、(3)有酸素系の早期動員により後半の代謝的余裕を確保――という点にある。
対照的に、前半を抑制的に走る戦略は、ATP-PCr系の未活用と解糖系への急激な負荷集中を招き、250-300m区間での致命的な乳酸蓄積を生む可能性がある。松本の中学期800mトレーニングで構築された有酸素系基盤が、この前半主導型戦略を可能にしている。
心理的主導権の戦術的価値
レース心理学において「先頭を走る」ことは重要な心理的優位性を提供する。先頭走者は(1)自己のペースで走れる、(2)他選手の動きを意識せずに済む、(3)追う選手に心理的プレッシャーを与える――という利点を持つ。
脳科学的には、先頭走行は前頭前野の認知的負荷を軽減する。他選手の位置・速度を視覚的に監視し、それに基づいて戦術を調整する――この種の複雑な認知処理が不要となり、認知資源を動作制御と疲労管理に集中できる。
松本が「残り100m地点まで先頭を維持」できた事実は、生理学的能力(前半の高速走行を支えるパワー)と心理学的能力(主導権を保持する自己効力感)の両面でさらに成長していることを示している。
考察② 200m以降コーナーでの技術的破綻――生体力学的分析
「上体起き上がり」の力学的連鎖
「200m過ぎでのコーナーの走りで上体が起き上がっている」という現象は、動作力学的に以下の連鎖として説明される。
疲労による体幹安定性低下: 200m以降、乳酸蓄積と中枢性疲労により、体幹深層筋(多裂筋、腹横筋)の持続的収縮が困難になる
代償的姿勢変化: 体幹の不安定性を補うため、表層筋(腹直筋、脊柱起立筋)が過剰に働き、上体が起き上がる
重心位置の上方移動: 上体起き上がりにより、身体重心が高くなり、接地時の衝撃吸収効率が低下
推進力の垂直成分増大: 重心高位により、地面反力の水平成分(推進力)が減少し、垂直成分(非推進的)が増大
ストライド効率の低下: 推進力減少により、歩幅が短縮し、速度が低下
コーナー走行の特殊性――遠心力と内傾の力学
400mのコーナー(0-100m、300-400m)では、直線走行とは異なる力学的要求がある。コーナー走行時、身体には遠心力が作用し、これを相殺するために内傾姿勢が必要となる。
最適な内傾角度は、速度、コーナー半径、重力加速度によって決まる。400mトラックのコーナー半径は約36-37mであり、9m/s(400m53秒台相当の平均速度)で走行する場合、約15-20度の内傾が必要となる。
問題は、疲労により体幹安定性が低下すると、この内傾姿勢を維持できなくなる点である。上体が起き上がると内傾角度が不足し、遠心力に対抗できず、身体が外側へ流れる。結果として、レーンの外側寄りを走ることになり、実走距離が増大し、さらなる速度低下を招く。
体幹機能とコーナー技術の統合
松本が「体幹を使った走りを定着させていきたい」と述べる通り、課題の本質は体幹機能である。ここでいう「体幹」とは、単なる腹筋・背筋の筋力ではなく、「動的安定性」――高速走行中に姿勢を保持する能力――を意味する。
神経筋系の観点から、動的安定性には(1)深層筋の持続的活性化、(2)表層筋と深層筋の協調的制御、(3)固有受容感覚に基づく即時的姿勢調整――が必要である。これらは、体幹特異的トレーニング(プランク、ロシアンツイスト等の静的エクササイズ)だけでは不十分であり、高速走行中の動的負荷下でのトレーニングが有効であろう。
考察③ 0.02秒差の心理学的意味――勝敗と成長の弁証法
僅差敗北の両義性
0.02秒という差は、人間の知覚閾値以下であり、レース中に認識不可能である。この種の僅差は、(1)能力的には同等、(2)偶然的要因(風向の微妙な変化、接地位置の数センチの差)が決定的――という解釈を許す。
失敗の原因をどう捉えるかは、その後の成長に影響する。失敗の原因を「能力」に帰属すると無力感を生むが、「努力」や「戦略」に帰属すれば改善への動機を維持する。松本の「コーナーの走りで上体が起き上がっている」という分析は、明確に「技術的要因」への帰属であり、心理的に極めて健全である。
勝者への敬意と祝福
「松本と武石がすぐに青山のもとへ駆け寄り、勝者を称えた」という場面は、深い敬意に満ちたものであった。
高校時代から良きライバルとして切磋琢磨してきた青山が、大学3年から2年ほどのスランプを経て、競技を辞める寸前にまで追い込まれていたことを、松本は知っていた。その青山が、多くの人々に支えられながら必死に這い上がり、3年ぶりに日本一の座を取り戻した瞬間だった。
武石もまた400mを専門とし、日本のトップレベルで戦う選手として、青山の苦しみと復活の重みを深く理解していた。そこには悔しさを超えた敬意があった。トラックに倒れ込んで涙を流す青山の姿に、これまでの苦しみと、そこから立ち上がってきた道のりが重なった。ライバルとして共に高め合ってきた青山の復活劇を、誰よりも近くで見てきたからこその祝福だった。
この瞬間、順位や記録を超えた、競技者同士の深い絆が表現されていた。
考察④ スタート技術の安定化――出雲からの継続的改善
「ブロックのハマりが良かった」の技術的意義
松本が「予選・決勝共にブロックのハマりが良かった」と評価する通り、出雲陸上で課題とされたスタート技術が改善された。「ハマり」とは、ブロッククリアランス時の推進力最大化を意味し、(1)後脚での強力な伸展力発揮、(2)前傾姿勢の保持、(3)体幹安定性の維持――が統合された状態を指す。
動作力学の研究では、ブロッククリアランスでの水平推進力が、その後の0-30m加速局面の歩幅・速度に直接影響することが示されている。スタートの0.1秒改善は、最終記録の約0.3-0.5秒改善に相当する。
出雲陸上(4月)から日本選手権(6月)までの2ヶ月間で、この技術要素が安定化した事実は、松本のトレーニング環境と学習能力の高さを示している。東邦銀行での専門的指導と、松本自身の高いメタ認知能力が、この短期間での技術改善を可能にしたのだろう。
考察⑤実業団選手初年度の位置づけ――再構築期の通過点
筑波大学時代の「試行錯誤と停滞」の意味
松本は高校3年で日本選手権を制した後、筑波大学時代には記録面での大きな飛躍が見られない時期を経験した。この時期は、スポーツ発達理論における「プラトー」――一時的な成長停滞――として理解されることがある。
こうした時期の要因は様々であるが、大学環境への適応やトレーニング内容の模索といった要素が考えられる。重要なのは、この期間の苦しみやをいかに「再構築」の機会として活用できるかである。
松本の場合、筑波大学での4年間は、高校期の技能をさらに深化させ、より高度な技能体系を構築する期間として機能した可能性がある。実際、2019年の一連のレースで示された精緻な自己分析能力は、この時期の深い省察の産物と考えられる。
東邦銀行での環境最適化
実業団初年度で53秒70という記録は、絶対値としては高校ベスト(54秒00)からの改善だが、劇的な飛躍ではない。しかし重要なのは、記録の量的変化よりも、技能の質的な再構造化である。
「前半主導型」という明確な戦略と「コーナー技術」という具体的課題が明確化されたこと自体が、大きな前進といえる。技能発達においては、何ができていないかを正確に把握する段階を経ることで、次の「意識的有能」段階へと移行していく。松本は今、まさにこの移行過程にある。
東邦銀行という専門的環境が、この質的な深化を促進している。高校時代に憧れた「不思議な空間」――トップアスリートが集う独特の雰囲気――の中で、松本はこれまでの基盤の上に、さらに高度な技能を積み上げている。
考察⑥ コーナー技術改善の展望――動作力学的介入
体幹強化の具体的方向性
「体幹を使った走り」の定着には、以下のトレーニング戦略が有効と考えられる。
動的体幹トレーニング: 単なるプランクではなく、不安定面(バランスボール、BOSU)上での動的エクササイズにより、高速走行中の動的安定性を向上
高速走行中の体幹意識: 200-300m区間を特異的に反復し、疲労時の姿勢保持を神経筋系に学習させる
コーナー特異的練習 コーナーのみを反復走行し、内傾姿勢と推進力の統合を身体知として習得する。
ランニングエコノミーの精緻化
上体起き上がりは、エネルギー効率(ランニングエコノミー)の低下を招く。生理学的に、同一速度での酸素消費量が増大し、疲労が加速する。コーナー技術改善により、この種のエネルギーロスを最小化できれば、後半の余力が増し、ラストスパート能力が向上する。
動作力学のシミュレーションでは、コーナー技術の最適化により、400m全体で0.3-0.6秒の短縮が期待される。松本の53秒70が53秒1-53秒4へ改善されれば、日本トップ層の中でもさらに上位への到達が視野に入ってくる。
結語――武器と設計図が揃った再成長の起点
2019年日本選手権は、松本奈菜子にとって単なる惜敗ではなく、再成長プロセスにおける重要なマイルストーンである。前半主導という「武器」と、コーナー技術という「改善設計図」が明確化され、次の飛躍への条件が整った。
0.02秒差での3位という結果は、能力的には優勝圏内にあることを証明している。残された課題は、生理学的基礎能力の向上ではなく、技術的精緻化である。この種の技術課題は、適切なトレーニング介入により比較的短期間(6-12ヶ月)で改善可能である。
実業団初年度の経験は、高校時代から培ってきた科学的・論理的な技能を、より高度なレベルへと発展させるプロセスであった。筑波大学での試行錯誤を経て、東邦銀行での専門的環境で開花しつつある松本の競技力は、今後さらなる飛躍を予感させる。
コーナー技術という最後の要素が完成したとき、53秒の壁を超え、52秒台、さらには松本が後に目指すことになる世界水準への扉が開かれるだろう。この日本選手権は、その道程における確かな一歩となったのである。
参考資料:後日掲載します。


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